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額田と額田大中日子命

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2017年 9月 6日(水)10時06分21秒
  久しぶりに、HPいこまかんなびの杜に「額田と額田大中日子命」についてアップしました。

http://www.geocities.jp/iko_kan2/nukata.html
 
 

Re:重複するかもしれませんが、

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2017年 6月 3日(土)22時20分25秒
  shakarikyさんへ

「草香山は生駒山そのものなのか、あるいは別の山を指すのかが明確ではない気がしますが、」

ですが、まず生駒山の範囲をどのようにお考えなのかしりませんが、表現として私はどちらも正

しくはないと思います。

重複しますが、文献上の問題は別として、草香山は、生駒山の主峰の北から下っていく斜面と平

坦部あたり、自分では「生駒山の北嶺」と呼んでいる所、つまり直越道が越える所、巨石祭祀が

行われた所と思っています。(信貴生駒スカイラインの料金所の周辺から生駒山の主峰までの斜面

を想定)
 

重複するかも知れませんが、

 投稿者:shakariky  投稿日:2017年 6月 2日(金)14時18分6秒
  草香山は生駒山そのものなのか、あるいは別の山を指すのかが明確ではない気がしますが、根拠はありますか?
日下町との位置関係は分かりますが、それだと草香山=生駒山になりそうですが、記紀では両方の記載があるので、
矛盾します。
 

50年ぶりの郡川16号墳

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2017年 6月 1日(木)15時36分19秒
  昨日は、50年前の記憶を辿りながら、近鉄信貴山口駅の東方山ろくにある郡川第16号墳という古

墳を探しに行きました。

調査の実施からちょうど半世紀が経過、大体の場所は記憶していましたが、草や樹木が生い茂

り、それらしい場所は探し尽くし、断念して帰ろうとした時、幸いにも覆いかぶさった草の奥で

古墳の入口の天井石と空間を見つけることができました。まだ諦めるのは早いよ、ということ

だったのでしょう。

この古墳は、八尾市高安山ろく一帯に6世紀後半を中心に築造され200基以上の高安古墳群の中で

も南端に近い郡川地区の谷合に群集している郡川支群の一基で、高安の群集墳の中では最も古い

形式の横穴式石室として位置づけられる貴重な古墳なのです。

信貴山口駅の北側踏切から山に通じる細い山道を登り、高安山駅まで通じる西信貴ケーブルの軌

道に出る手前北側に位置しています。

昭和41年に大阪府教委が実施した「八尾市高安古墳群の調査」の一環として、故藤井直正氏の許

に集まった大学生や多数の高校生らにより、高安地域の分布調査・代表的な各地区古墳の実測と

確認のための発掘調査が行われましたが、今回探訪した郡川16号墳は、私が大学2年の夏に主に担

当して調査を実施した古墳で、古式の横穴式石室内からは珍しい韓式系土器などが出土し、昭和

62年(1987)に石室と出土遺物の紹介を『韓式系土器研究Ⅰ』に発表したことがあります。文化財

に関わってきた人生の中で思い出深い古墳の一つなのです。

古墳上部の墳丘は、過去に削平されていて、天井石が露出しており、南を向いた石室の入口は、

当時の調査後に埋戻したのですが、いつのまにか再び開口され、お蔭というか狭い口から石室内

に這いつくばって暗い石室内に入ることができました。

詳しい内容は省きますが、方形に近い墓室(玄室)に四方からドーム状に側壁が迫り出して小さな

天井石3つで覆われ、6世紀前半の須恵器などが出土しています。


 

素晴らしい!

 投稿者:Shakariky  投稿日:2017年 5月30日(火)16時46分51秒
  説得力のあるご説明、感服致しました。
余程、ご熱心に研究なさっているのだろうと敬服致します。

個人的にメールやFBやLINEのやり取りをさせて頂く方法はありませんでしょうか?
無理ならそう言って下さい。

そちらにもメリットのある情報交換が出来るかも知れません。
恩返しがしたい。そう思っております。

有り難うございました。
 

Re: 素朴な疑問

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2017年 5月30日(火)15時01分54秒
  Shakariky さんへ

お返事が遅れまして申し訳ありません。

草香山=生駒山は決定的証拠があるのでしょうか?、のご質問ですが、結論からいいますと、決定

的な根拠はありません。

生駒山西麓の東大阪市(旧枚岡市)日下~石切一帯は、古代には大阪湾につながる浅い入海~潟(河

内湾~河内潟)が山裾近くまでせまり、『古事記』や『万葉集』に登場する「 久佐迦江(草香

江)」に臨んでいた日下地域は、『日本書紀』神武東征の記事に登場する「河内国草香邑青雲白肩

之津」や「草香津」など湊があった地域(旧河内国河内郡大戸郷)と考えられています。

こうした位置的な関係から、背後に連なる生駒山の北嶺が『万葉集』に登場する「草香山」であ

り、大和方面(生駒市域)から、草香山の西のふもと、河内の日下(草香)邑の地へ通じる山越え

道、「日下の直越道」が通る山であったと考えられています。

余談ですが、私は『住吉大社神代記』中「膽駒神南備山本記」に四至の北限と記載のある「饒速

日山」がこの地だと想定しています。

生駒山は長く南北に連なり、草香山はテレビアンテナの林立する主峰の北端から嶺を北へ下った

所と考えていますが、勝井純著『神武天皇御東遷聖蹟考』(昭和12)や『孔舎衙春日宮社記』や

『肇國の聖蹟(神武天皇聖蹟顕彰会)』(昭和15)発行の地元資料などに草香山や饒速日山の記載が

みられます。

また、ご質問の②③とも関わりますが、『古事記』雄略天皇の段には、天皇が大日下王の妹、若

日下部王を娶られた・・初め太后(若日下部王)、日下に居られた時、天皇は日下の直越の道から

河内に幸行された、と登場しますが、私がよく参考にします『枚岡市史』本編(昭和42)中に

「3.大日下王・若日下部王と御名代部」「4.雄略天皇の妻問いと日下の直越」の解説があり、執

筆された今井啓一氏は「大日下王とその御妹、若日下部王のお二方がこの日下邑に坐したこと

は、その御名代部をそれぞれ大日下部、若日下部といい(記仁徳段)、また記雄略段に初め太后、

すなわち若日下王が日下に坐しける時、日下の直越道より河内に幸行でましき云々と妻問いの一

条によっても明らかであり、・・・」と書かれており参考にしています。

③若日下王の宮を日下邑と断定する文献についてのご質問ですが、断定する文献はありません。

②の様なことからの想定となります。

なお、考古学的にも今の日下あたりではそれらしい5世紀の遺跡はなく、少し南に当時の草香江に

面した5世紀のやや大型の円墳(塚山古墳)や、石切剱箭命神社が近い新石切駅周辺には、堅穴住

居・導水祭祀遺構が発見された神並・西ノ辻遺跡(縄文~中世)などの大規模遺跡がありますが、

大日下王などと結びつけるまでは至っておりません。
 

素朴な疑問

 投稿者:shakariky  投稿日:2017年 5月27日(土)11時54分17秒
  素人なもので、失礼な質問かも知れませんが、
●草香山=生駒山は決定的証拠があるのでしょうか?

●また、「天皇の次妃であった日向之諸縣君牛諸の娘、髪長比売との間で生まれた兄の波多毘能大郎子 (大日下
王)と、妹の波多毘能若郎女 (若日下部命)の兄妹が日下邑の地に住んでおられたよう」
の根拠となる記載はありますでしょうか?

●若日下王の宮を日下邑と断定する文献もお教え願いたい。

あなたの分析・研究に敬意を表します。
 

HPの手直し

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2017年 2月 8日(水)13時30分22秒
編集済
  リンク切れ・行の乱れなど、いろいろ不備な状態で放置してきた「いこまかんなびの杜」のHPですが、先日来少し手直し等を続けており、少しは改善できたかなと思っております。
引き続きページの手直し・新しいページの追加などやっていきたいと思っております。
どうかよろしくお願いします。
 

お礼

 投稿者:かとう  投稿日:2016年 7月27日(水)08時29分40秒
  さっそくのご回答、まことにありがとうございました。
調べてみます。
 

Re:「神武天皇聖蹟調査委員会」について

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 7月26日(火)22時08分3秒
編集済
  かとうさんへ

お尋ねの件ですが、『神武天皇聖蹟調査報告』(1942年文部省編)があります。
ネットの「国立国会図書館デジタルコレクション」から検索するとPDFファイルで閲覧さらにはダウンロードもできます。リンクを貼りますので一度調べてみてください。

『神武天皇聖蹟調査報告』
 

「神武天皇聖蹟調査委員会」について

 投稿者:かとう  投稿日:2016年 7月26日(火)13時49分56秒
  はじめまして。突然のお願いで恐縮です。
「神武天皇聖蹟調査委員会」について調べています。この委員会について書かれている文献をご存知でしたら、教えていただけませんか。よろしくお願いいたします。
かとう
 

Re: 神武天皇聖跡について

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 7月21日(木)14時41分37秒
  三猿舎 安田 様

遅くなりまして申し訳ありません。お問い合わせいただきました「神武天皇聖跡顕彰碑」4ケ所の

写真の提供の件ですが、いい写真ではありませんが、喜んで協力・提供させていただきます。

写真を探して2~3日の内にメールで送らせていただきます。

しばらくお待ちください。

 いこまかんなび 原田修
 

神武天皇聖跡について

 投稿者:三猿舎・安田  投稿日:2016年 7月20日(水)21時53分41秒
  突然のご無礼の段、お許しください。私は編集プロダクション『三猿舎』を主宰しております安田清人と申します。小社ではいま、高野山や熊野などを中心に、和歌山県の史跡を紹介するムックの編集を手がけております。たまたまこちらを拝見したのですが、お取り上げになっている「神武天皇聖跡」については、残念ながら手元に写真がございません。不躾な尾根がいとは存じますが、和歌山市・新宮市にございます顕彰碑(4箇所)のお写真をご提供いただくわけには参りませんでしょうか。ご迷惑をおかけすることのないよう、ご指示に従いまして善処させていただきたいと思います、ご検討の程、お願い申し上げます。

三猿舎・安田(03-5282-7061)
sanenshapub@ybb.ne.jp
 

住吉神社探訪記 96 京都市伏見 旧森村にあった住吉神社 (4)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月29日(水)21時30分33秒
編集済
  御香宮について『御大礼記念京都伏見町誌』 (1929)には、「本殿には正中に、神功皇后・仲哀天

皇・応神天皇を祀り、東間に宇部大明神(武内宿禰公)・瀧祭神(級長戸辺命)・河上大明神(豊玉姫

命)、西間に高良大明神(高良玉垂命)・若宮(仁徳天皇・菟道稚郎子尊)・白菊大明神を祀り、これ

を御香宮九柱神と称え奉る」と記し、境内末社として大神宮など16社をあげている。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.93426820519363,135.7668971826392,16

その中には末社として住吉神社が含まれ、現在の御香宮本殿東側境内には「住吉大明神」・「八

阪社」・「恵美須」・「若宮八幡」の古い扁額を掲げた四社宮が祀られている。

しかし、住吉大明神の社殿等について特別の扱いを受けている訳でもない。伏見城守護の役割を

もって移転と復社が行われていった間に、住吉の神は特別の神ではなくなっていった可能性があ

るように思う。

江戸時代の地誌等には、森村にあった住吉神社が大椋神社とも呼ばれ、さらに式内社の大椋神社

であった可能性を記していたにもかかわらず、『式内社調査報告』 (1979)

の「大椋神社」には詳しい考證がなく、「思うに久世郡巨椋神社と同じく干拓以前の巨椋池周邊

にあって『新撰姓氏録』左京神別に見える大椋置始連らの祀るところであったのだろう。」と記

すのみで残念である。


古来伏見一帯は、紀伊郡の南端に属し、西・南とも水域に囲まれて水運に恵まれた所である。

周辺は、神功皇后伝承に深く関わる地であり、郡名からは当然ながら古代大豪族の紀臣氏族、

渡来系の紀臣系部民の城部・木勝らの関わりが深い所であったことが考えられる。

旧森村にあった住吉神社、別名大椋神社は、恐らく式内社であったのだろうし、加えて周辺に存

在した式内社御諸神社の論社とされる御香宮の神域などと合わせて、巨椋池を望む地に大きな神

域が広がっていたと考えられる。


なお最後に『御大礼記念京都府伏見町誌』 (1929)に付図として載せられ、

文安2年(1442)に書写されたと但し書きのある「伏見山寺宮近廻地図大概」には、石井村の村落

を描いた右(南)に「大椋神社」と記して社叢・社殿・鳥居を描いているが、森村と記載がない。

また、左(北)に位置するはずの御香宮は、かなり上手の法安寺村の南に近い位置に社殿と鳥居が

描かれているのが注意される。

さらに「正親町天皇御宇天正年間豊公築城以前伏見九郷の稱あり、史上に於てはその名を見ざる

も、伏見の旧家往々この図を所蔵す」と紹介する同書付図の「伏見九郷之図」には、「石井村」

と楼閣のように描かれる「大宮殿三社御香宮社殿」の下には、「森村」と「大椋社 住吉」と記す

二層の社殿を描いている。

両書写図ともに「大椋神社」の存在を強く意識して描かれていることがわかる。

 

住吉神社探訪記 95 京都市伏見 旧森村にあった住吉神社 (3)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月29日(水)21時20分56秒
  森の住吉神社が遷された先と伝える御香宮であるが、この宮もほぼ同時期に伏見城下武家屋敷町

の造成に伴って移動させられたことが記録から判る。

『都名所図会』 [安永9年(1780)] には、

御香宮は、城山の西にある。本社には神功皇后を祭る。この地に御鎮座された年など詳しいこと

は不明。文禄年中に伏見の城山を築造された時、宮の社殿を大亀谷の東へと遷されたが、神の崇

りがあったとして再び旧地へと遷座された。(しばらく遷された地は古御香宮と呼ばれ、当社の御

旅所となっている)・・・(略)・・・。

と記して(私訳)いる。

この中で大亀谷とは、伏見城郭跡の北側背後、深草の藤森から東南方、木幡・宇治への道が通じ

る谷合い、現在の深草大亀谷古御香町の一画へ森の住吉神社を含めて御香宮社が遷宮祭祀され、

再び一緒に山下にあたる現在の地へと還宮されたものと考えるのが自然である。

また、『山州名跡志』 正徳元年(1711)には、

御香宮

伏見山の西3町ほどにある。門前の通りを合手條(おうてすじ)という。すなわち古の城の合手口へ

の順路である。門は南向、鳥居は南向きの木柱、拝殿・神殿も南面する。祭神は神功皇后。 鎮座

の由来は不詳。 伝えによると当初の祭神は九坐の神で、神輿も九坐あった。地元の産土神であ

る。例祭は9月9日。神輿1基。延喜式に載せられている御諸神社がこれにあたり、鎮座の由来も不

明。一書には貞観年間(*859-877)の勧請とある。・・・ (略)・・・・。

伝えによると、この地には初め金札宮があり、御香宮は南方の地、今の奉行館の西にある家中の

屋敷地にあったという。今なお古木があるのは昔からの御神木である。そのため、枝が風で折れ

たり枝を伐った際は、その木を当宮神職の家へ送る。

とも記して(私訳)いる。


当初の祭神が九坐の神であったことに関し、神社でいただいた由緒書 『御香宮』 には、六柱の神

を祭るとしか書かれていない。

(続く)
 

住吉神社探訪記 94 京都市伏見 旧森村にあった住吉神社 (2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月29日(水)21時15分9秒
  ここに登場する奉行屋敷とは伏見奉行所である。

伏見大手筋通にある京阪伏見桃山駅・近鉄桃山御陵前のすぐ東側には、神功皇后を主祭神として

祀る御香宮神社がある。その南側にある京都市営桃陵団地の敷地、東・西奉行町辺りが伏見奉行

所のあった所である。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.931101727331935,135.7658242990334,16

団地の西側入口には「伏見奉行所跡」の碑と「桃陵団地の歴史」の説明板が建てられている。

説明板によると、寛永元年(1624)、徳川家光の時に伏見城を壊し、富田信濃守の屋敷のあった場

所に伏見奉行所を建設したようである。南方伏見合同宿舎の角には今なお立派な石垣が残ってい

る。

もとこの地に伏見九郷の一村森村があり、森の住吉あるいは大椋神社とも呼ばれる住吉神社が存

在していたことになる。

つまり文禄年間における森村の人家移動に伴って、住吉神社(大椋神社)も新しい住吉町へと遷さ

れたと見られるが、それは分祠社と考えられ、その本社については御香社へと遷したものと考え

られる。

ところで大椋神社とも呼ばれた森の住吉神社について、『山城名跡巡行志』には、

大椋神社

その旧跡は奉行所内にある。祭神は住吉三神で、延喜式に載せられる(山城国)紀伊郡の大椋神社

がこれにあたる。この地は、昔の森村にあたっていたことから森の住吉と呼ばれていた。文禄3年

(1594)に社を御香宮に遷し、人家は西北方向、現在の住吉町へと移された。その跡にはなお小祠

が祀られている。

と記して(私訳)いる。

森村の人家移転に伴ない、大椋神社すなわち森の住吉社の遷座先は御香宮と明記し、旧地すなわ

ち奉行所内にもなお住吉の小祠が祀られていたことがわかる。

また、森の住吉社の別名大椋神社が、『延喜式』神名帳の山城国紀伊郡八坐の内に載せられる式

内社「大椋(おほくら)神社」である、と記していることもとても重要である。

(続く)
 

住吉神社探訪記 93 京都市伏見 旧森村にあった住吉神社 (1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月29日(水)21時03分45秒
  京都の街の中心部から東山に沿って南へ約3km、京都市の南端にある伏見区の伏見・桃山町内にも

2か所の住吉神社が存在したことが文献史料より知ることができる。

明治以前、深草~伏見町一帯は、山城国紀伊郡に属し、西方には桂川・宇治川・木津川の三川が

集まる所には淀の町があり、伏見の南方に広がる宇治川流域~盆地中心部の低湿地には、広大な

湖沼から変遷した「巨椋池(おぐらいけ)」と呼ばれる水域に面し、古くから水運や陸路の要衝地

として栄えてきた。

荘園や別業地が多かった時代から「伏見九郷」の時代を経て、やがて豊臣秀吉による伏見築城と

大規模な濠や水路・城下町の造成によって、伏見の町は大きな変貌と発展を遂げた。


さて、伏見に存在した住吉神社2社であるが、まず『都名所図会拾遺』 [天明7年(1787)]に、

住吉社

(伏見)川口船大工町にあって宝蔵院と称する。社前に大木の古松があり、その形は蟠龍(とぐろを

巻いた龍)
のようである。

森住吉社

住吉町にあって大椋神社と称する。古くは森村に鎮座していた。文禄年間(1592~1596)に森村の

民家をこの地に移した時、神社も移す。

と記して(私訳)いる。

この内、後者の森住吉社であるが、文禄年間に森村の人家と一緒に住吉社も移されたと解釈でき

るので、まずは住吉町の地を訪ねた。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.94311610361997,135.76167223947888,16

近鉄京都線伏見駅の南約300m、伏見城下武家屋敷地外に掘られた外濠の濠川(ほりかわ)西側に住

吉町がある。

付近を調べたが濠川と大正期に設けられた放水流路に挟まれて京都市立伏見住吉小

学校、一筋西の地に住吉児童公園・住吉会館などがあったが、住吉神社は見つけられなかった。

文禄年間まで森の住吉社が鎮座したという旧森村は、伏見九郷の一村で、『山城名跡巡行志』

[宝暦4年(1754) ]を見ると、伏見九郷として即成院村・保安寺村・石井村・森村・舟津村・

久米村・山村・北村・北尾村の9ヶ村をあげ、この中の森村について次のように記す。

森村は、今の奉行屋敷の辺りである。住吉の社があり森の住吉社と呼ばれたが御香宮へ遷され

た。人家は移されて今は住吉町と呼ばれる。

と記して(私訳)いる。

(続く)
 

住吉神社探訪記 92 補足 少將井旧跡の顕彰碑

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月 8日(水)20時49分0秒
編集済
  京都新聞社の東側、京都市中京区車屋町竹屋町下少将井御旅町352にある「山茶花美術館」の表左

側に平成21年に建てられた「少將井舊跡」の顕彰石碑がある。
 

住吉神社探訪記 92 京都市中京区菊屋町の南に存在した住吉別宮 (2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月18日(水)21時19分40秒
編集済
  高房の邸宅は、関連史料として載せる『古事談』・『百練抄』の記録には「高房朝臣大炊御門

亭」と記され、大治5年(1130)7月10日に火災で焼失した。その後、邸宅跡は、白河天皇の大炊御

門萬里小路殿ほかへと変遷していったようである。

ところで、『諸社根元記』に記されているという「大炊御門萬里小路住吉ノ別當但馬前司高房鎮

守」の「住吉ノ別當」については、『京都市の地名』も菊屋町の箇所で『京都坊目誌』に記す

『諸社根源記』の文をそのまま引用しているが、そもそも高房の鎮守とあるのに「住吉別当」と

いうのは理解しがたい。

何度か『諸社根元記』の内容を確認したが、「大炊御門萬里小路住吉ノ別當但馬前司高房鎮守」

の記述自体も見つけられなかった。

幸いなこと、宝永2年(1705)刊行の『山城名勝志』 (「京都叢書」)を見ると

○高房朝臣亭

古事談には、延久5年(1073)5月7日、太上皇の後三條は、高房朝臣大炊御門亭において崩御。大炊

御門の南、萬里小路の東。

○住吉ノ別宮

諸社根源記にいう 大炊御門萬里ノ小路住吉ノ別宮 但馬ノ前司高房鎮守

と記されて(私訳)いるのである。

「住吉ノ別當」ではなく「住吉ノ別宮」である。

これをさらに木版刷りの『山城名勝志』で確認すると、間違いなくやはり「住吉ノ別宮」で正し

かった。

11世紀の後半、左京二条四坊十一町の大炊御門萬里小路に邸宅を構えた源高房の鎮守「住吉別

宮」とは、摂津の住吉神社の別宮の意味であるのか、あるいは既に平安京内のどこかに勧請され

ていた住吉神社の別宮の意味だったのだろうか。今は神社の痕跡も見当たらない。

高房の時代には、この地から三町西方、東洞院大路の西側の三坊十四町に『枕草子』にも登場す

る冷泉の「少將井」があって、『百練抄』に「永久五年(*1117)正月十三日。祇園ノ別宮少將井

炎上」と記されるように、祇園社の別宮(御旅所)が存在した。

その地は、現在の四条通にある四条御旅所に移される前の古い時代の御旅所の一所で、祇園会に

は櫛稲田媛命(祇園少將井)の神輿を迎えて井桁の上に置き御霊会を行ったという。


同じように「別宮」の名を付す「祇園の別宮少將井」と高房朝臣邸に存在した「住吉別宮」が何

らかの関係を有したのかどうかは不明であるが、平安京内に営まれた公家たちの邸宅に付属して

祀られてきた神祠の変遷と興廃の歴史を考える上で重要な記録の一つといえるだろう。

     
 

住吉神社探訪記 91 京都市中京区菊屋町の南に存在した住吉別宮 (1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月18日(水)21時13分39秒
編集済
  京都御苑の南方、丸太町通から一筋南側にあたる竹屋町通(大炊御門大路)と南北通りの柳馬場通

(万里小路)が交わる南東側に京都市立御所南小学校がある。学校の東側の富小路通は、平安時代

にはやや東側を通り、おなじく富小路と呼ばれ、南側の夷川通は、冷泉小路と呼ばれていた。

学校敷地を含む一画は、左京二条四坊十一町にあたる。

この辺りは、『平成5年度京都市埋蔵文化財調査概要』1996によると「白河天皇の大炊御門殿、後

鳥羽・土御門・順徳三上皇の大炊御門京極殿、後嵯峨天皇が後深草天皇に譲位した冷泉万里小路

殿など、天皇の仮御所や貴族の邸宅などが立ち並ぶ邸宅街であった。当地は、文献史料から11世

紀後半には源高房、12世紀後半には藤原経房の邸宅があったことが知られる。」とされ、御所南

小学校の発掘調査では、平安時代後期~鎌倉時代の遺構として、大炊御門大路の路面と南側の

溝、井戸・溝・掘立柱列・土器溜・土壙などが見つかっている。学校の東南側、富小路通にある

富有自治会館前には、富有同窓會による「大炊御門万里小路殿」の顕彰石碑が建てられている。

石碑の所在地

http://www.mapion.co.jp/m2/35.01527303054495,135.76491771238648,18


さて、源 高房の邸宅について『京都坊目誌』には、

○源高房の亭跡 菊屋町の南側の地にあたる。高房は宇多源氏で有明親王の玄孫(やしゃご)にあ

たる源行任(ゆきとう)の子である。正四位下但馬守となり宮内卿に任じられた。大炊御門万里小

(おおいみかどまでのこうじ)に住んだ。延久4年(1072)12月8日、後三條帝は、帝位を皇太子の

白河に譲り、16日に二條第へ御幸され、翌5年(1073)4月には、高房亭へ移られ5月7日にそこで崩

御された。大治(1126~1130)の初めには一時鳥羽上皇の御在所となったこともある。

○住吉神社の跡 同所にある。廃亡の日などは不詳。『諸社根元記』に「大炊御門萬里小路住吉

ノ別當但馬前司高房鎮守」云々と記す。

と記され(私訳)ていて、源高房邸内に鎮守としての住吉神社が祀られていたことがわかる。

(続く)

http://

 

住吉神社探訪記 90 京都市右京区西院春日神社境内の住吉宮(4)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月14日(土)16時44分34秒
編集済
  一方 『都名所図会拾遺』の説明は少し異なっていて、次のように記す。

春日社

西院村の北のかた林の中にある。昔は神祇官にあり、そのため神祇官春日社と称した。地元の産

土神である。例祭は9月9日で、神輿は2基ある。

住吉社

同村西の方、南へ半町ほどの所にある。その付近、昔は伽藍があって当社はすなわち鎮守であっ

た。所在地の字名は「寺の内」という。6月28日に御祓が行われる。

野 宮

西院村から5町ほど離れた往還の西、林の中にある。ここは、嵯峨と同じく齋宮の居所となってい

た所で潔斎の地であった。今は西院春日明神の御旅所となっている。

寶蔵院

西院村の宗圓寺の南隣りにある。浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。則ち草堂と呼ばれる。この

寺の西に太田氏という農家がある。ここには昔から伝来する三尊仏があって、阿弥陀仏の坐像は

5尺ほど、脇士は観音・勢至菩薩である。

この地は、前に記した住吉社の南にあたり、ここの字名も「寺の内」といい、昔は寺院があっ

た。その本尊が残されて現在も民家に安置されているのである。

と記して(私訳)いる。宗圓寺の存在は不明である。


以上、今なお小さな祠として祀られている「住吉大明神」の本来の「西院住吉社」は

『都名所図会』
「梅宮」の背景に描かれ、『都名所図会拾遺』

には字名が「寺の内」にあったことを明記している所から、現在の寶蔵寺を含む西側背後の大き

な伽藍跡つまり「寺の内」の一画に、鎮守として「住吉社」が祀られてきたことは間違いない。

その古い伽藍が「松井寺」あるいは「邦恒堂」であったのかどうかは判らない。

また、太田氏に伝来したという阿弥陀三尊仏は、邦恒堂に祀られた定朝作の阿弥陀如来像であっ

たのだろうか、さらに現在も付近には太田姓の家が点在するなど、たいへん気になる所である。


ところで、元の「住吉社」は、木製の鳥居が四条通の方向つまり北を向き、社殿は西を向いてい

た。また、江戸時代から春日神社の2基の神輿の内の1基は住吉社の神輿で、両社の例祭(春日

社の例祭日は記録に異同あり、現在は10月)の時は、共に御旅所となってきた西方の「野宮」

(下の写真)へ巡幸していたことは、現在も変わらない。

ただし、江戸時代から春日神社に住吉社の神輿がなぜあったのかというのは、どのように理解す

ればいいのか。住吉社が境外摂社・末社であった可能性は低く、その創祀の年代は松院の時代に

遡るものと考えるのも面白い。

 

住吉神社探訪記 89 京都市右京区西院春日神社境内の住吉宮(3)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月14日(土)16時32分29秒
編集済
  松井町の北西端、綾小路通の手前に浄土宗の松樹山寶蔵寺という寺がある。

この寺の西側の古い町並みを残す路地の角で、偶然にも扉に「寺ノ内町々内会」と書かれた古い

赤い消火器の容器を見つけることができた。さらに北に曲がった路地の一画で、西に向けて祀ら

れる「住吉大明神」の祠を見つけることができた。

春日神社境内に祀られる住吉社は、もとこの地にあったのである。すぐ東側には何と住吉の名の

付くコーポもあった。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/35.0030802879474,135.7274070193184,19

付近は、四条通のすぐ南に位置し、右京五條三坊八町にあたる所で、平安中期には淳和院の別邸

の「松院」、平安後期には「邦恒堂」と呼ばれる阿弥陀堂、あるいは松井寺という寺が存在した

と考えられている地域にあたる。

寺ノ内町の住吉社の跡に祀られた小さな住吉大明神の祠は、覆屋の中に比較的新しい流造りの小

さな社殿が祀られており、左前には幕末期のものか笠石を載せて「住吉大明神」と刻んだ角柱状

の燈籠1基、正面には旧住吉宮のものとみられる盃状の凹みが付けられた台石が残る。

ところで、西院春日神社と住吉宮、さらに野宮の三社は、昔から深い関係があったようだ。

『山州名跡志』葛野郡には、

○春日社 西院村の北、平林の内にある。鳥居は西向で木柱。拝殿と社殿は南を向く。地元の産

土神である。例祭は8月28日。神輿は2基あって、その1基は住吉社の神輿である。

○住吉社 同村の西にある。鳥居は北向きで木柱。社殿は西を向く。

○野宮   齋宮ともいう 西院の西5町程の平林の中にある。拝殿と社は東を向く。ここは今、春

日社と住吉社の祭日には、神輿の御旅所となる。

と記され(私訳)、『山城名跡巡行志』もほぼ同様の記述である。  (続く)

                     
 

住吉神社探訪記 88 京都市右京区西院春日神社境内の住吉宮(2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月14日(土)16時24分23秒
編集済
  西院春日神社の境内に祀られている「住吉社」がもと祀られていたという「寺ノ内町」の場所に

ついては、町名が消滅しているためどの辺りにあったものか不明である。

『京都市の地名』によると、西院村は「明治6年(1873)12月、一村を車之路・出在家・立倉・今

在家・奥・中・寺之内・藪之内・新在家の9町に分けられた(『京都府地誌』)」とあり、「寺之

内町」の地名が登場するが、現在の何町にあるのかよく判らない。

『都名所図会』に載せられた「梅宮」の境内を描いた絵図の右手遠くに、左から「西院春日

社」・「西院住吉社」・「さいの野の宮」の3社が距離をおいて並ぶ様子が描かれていて、現在

の西院春日神社と野々宮神社を結ぶ中間あたりに元の「住吉社」があったことが判った。そこが

「寺ノ内」の手懸りである。

さて、西院春日神社西側の佐井西通(宇多小路)を南に進み、四条通を越えると西院松井町、西に

は西院坤(ひつじさる)町という町域がある。

『山城名勝志』は、永享日録に記される松井寺について、

○松井寺 西院村内の西南隅に寺町がある。ここは松井寺の旧跡か、松院の旧跡をこの寺とした

ものか。

と解釈して(私訳)いる。  (続く)

                     
 

住吉神社探訪記 87 京都市右京区西院春日神社境内の住吉宮(1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月14日(土)16時14分52秒
編集済
  四条通にある阪急西院駅から西北へ約300m、佐井通(別名春日通)を少し北に行った所に西院春

日神社がある。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/35.004884049632054,135.72964666384556,16

西院駅は、大学時代に駅前の「西大路四条」駅から市電に乗り「衣笠校前」まで行き来していた

懐かしい駅である。

ところで、平安時代、佐井通は道祖大路と呼ばれていた。道祖は「さい」と訓む。さいの神の

「さい」である。

佐井通に面した春日神社の鳥居をくぐり境内参道を西に進むと、広い神庭には10月の春日祭の

際に2基の神輿が還御の「拝殿回り」を行う拝殿があり、右奥には立派な朱塗りの横拝殿があ

る。その奥の瑞籬の内庭には、建御賀豆智命・伊波比主命・天児屋根命・比売神の春日四神を祭

る春日造の本殿4棟が並ぶ。

社頭の説明板によると、西院春日神社は、

「平安時代の初期、天長10年(833)2月28日、淳和天皇が仁明天皇に皇位を譲られ、淳和院(西院)

にお移りになられました。この時、勅命により奈良の春日大社よりご分霊をお迎えし、守護神と

されたのにはじまります。」

と書かれ、平安遷都後まもなく勧請されたことがわかる。

神社の東側一帯は、右京四条二坊十一町~十四町までの方二町の範囲に、淳和天皇(在位823-833)

の後院「淳和院」があったほか、西南付近には院の火災を避けて正子皇后が避難したとされる淳

和院の別邸「松院」が存在したともいわれている。

また付近には、平安後期に丹後や備後など7カ国の受領を歴任した藤原邦恒(986~1067)が、西院

の領所に営んだ阿弥陀堂「邦恒堂」などもあったといわれている。

さて、拝殿西側には舞殿や皇后正子内親王命ほかを祀る「還来(もどろき)神社」があるほか、奥

には淳和天皇を祀る「西院宮」と、住吉三神と大帯姫命(神功皇后)を祀る「住吉社」があり、さ

らに奥に弁天社・稲荷社を祀る神社が祀られる。

ところで、この内の「住吉社」であるが、向拝柱に付された説明札によると、「かつては正子内

親王が貞観年間(*859~876)に仮御座所とされた松院(現在の寺ノ内町)に祀られ、明治6年(1873)

に現在地に移された・・」と記され、現在の寺ノ内町に存在した淳和院の別邸「松院」に祀られ

ていた神社であったというのである。(続く)

 

住吉神社探訪記 86 京都市下京区松原通烏丸の俊成社と藤原俊成邸の跡

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月28日(木)10時59分16秒
  さて、『京都坊目誌』によれば、平安時代末期の文治2年(1106)11月、藤原俊成は後白河天皇に命

じられ、和歌三神の一神である紀伊国和歌の浦の玉津島神を、それから遅れて保元2年(1157)には

同じく住吉大神を俊成の五條宅内に勧請し社殿を造営したことになる。

『同書』には、

「藤原俊成の家址」京極町の西側より方一町の所である。伝えでは五條京極の家というのがこれ

にあたる。俊成を京極または五條と称するは、俊成の家があったからであろう。また別の邸宅が

五條にもあった。・・・・・。と記して(私訳)いる。

東西二か所の邸宅の内、五條にあった俊成の邸宅は、玉津島神社の地を含み烏丸通を東に入った

所にある「俊成町」周辺であったとされる。

『同書』の俊成町「町名起源」・「俊成の祠」の所を見ると、

伝わる所、この地は藤原俊成の宅跡であった。俊成の家は五條京極にあったが、別に五條の家も

存在し、その旧跡は玉津島町にあった。江戸時代の延宝年間(1673-1682)前後には、因幡堂前町・

紙屋町の町名もあった。宝暦年間には門出稲荷と称する神祠があったが、廃亡の年月は不詳であ

る。

○俊成の祠

俊成町438番地の富永某宅地内にあり、町民が私的に祭祀する。境内はわずか1坪で、ご祭神は皇

太后宮の大夫正三位藤原俊成という。社伝は不詳。明治36年11月30日に七百年祭が行われた。明

治44年には烏丸通の道路が拡げられた際、富永宅が狭小となることから、俊成の祠と俊成の木製

坐像を因幡堂の境内へ預けられた。とある(私訳)。

なお『山州名跡志』によると、社は西を向いて祀られていたようだ。

現在、俊成社は、松原通烏丸交差点の南東角にホテルの入ったビル下の狭い空間に移され、石燈

籠一対と小祠が通りに面して祀られている。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.99868606138349,135.75984297293098,18

天明7年(1787)の『都名所図会拾遺』には、当時の俊成社の様子を描いた絵図が掲載されている。

それによると、屋敷の裏庭の奥に建てられた二つの土蔵の間に、覆屋と垣に守られた流造の本殿

と入母屋風の拝所と鳥居があり、お参りに訪れた人なのか、2人の町人と案内する子どもを描いて

いる。絵図には「松原通烏丸東民家裏 俊成卿社」の説明が添えてある。
 

住吉神社探訪記 85 京都市下京区繁昌町の班女塚と住吉姫松の碑

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月27日(水)21時36分57秒
編集済
  玉津島神社のある松原通の一筋北、高辻通室町西入の繁昌町に、田心姫命・端津姫命・市杵島比

売命の宗像三神あるいは辨才天を祭るともいわれる繁昌神社(班女の社)がある。海神を祭る宮で

ある。

この神社の西側に建つマンション(カノン室町四条)の横、旧参道であった道を奥に入った所に、

1m以上の赤黒い大きな自然石を塚石に据えた「班女の塚」が祀られている。自然石はやや光沢の

あるチャートの様である。

塚の横に建てられた説明板によると「今は昔、平安京の頃、この辺りには藤原氏の邸宅がありま

した。その庭の中島に弁財天を勧請したのが「班女の宮」の始まりと伝えられます。・・・

(略)・・。鎌倉時代の逸話集「宇治拾遺物語」第三章の長門前司の娘の話の舞台は、この地に符

合することから、少なくともそれよりかなり古くから神が鎮座していたことを裏付ける証しとさ

れます。・・・・」と記されている。

物語の続きは、亡くなった娘のため築かれた高い塚が付近にあったこと、塚上に社が造られたと

いう。

ところで、班女の塚のすぐ右に接して、鉄柵に囲まれて小さな覆屋があり、中に黄灰色で柱状の

凝灰岩らしい碑が保存されている。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/35.00072940608922,135.7573941161007,17

碑面には大きな文字で「住吉姫松」と刻んでいる。聞くところによると、塚と並んでいるが繁昌

町域ではなく、そこは糸屋町だということで由来は聞いたことがないとのことであった。

もと班女の社について『都名所図会拾遺』には、

元はん女社

高辻通室町の西、北側人家の奥にある。昔この地に「はん女の塚」があり、今でも神祠が営ま

れ、鳥居の扁額には「半女社」と書かれている。その地には庭石が多数あって、はじめは画工狩

野氏の宅地であった。現在は、江戸狩野栄川の所有地であるようだ。

と記して(私訳)いて、赤黒い自然石は、庭石の1つと見られていたようである。

『京都坊目誌』には、

中世には、真言僧が守る功徳院という寺院となっていた。本尊は毘沙門天像を安置していたが、

天明・元治の火災に罹り、明治初年の神仏分離後に社殿が建てられた。

と記して(私訳)いるが、班女の塚・繁昌神社と「住吉姫松」の碑に関連する記録は見いだせな

い。

この碑は、江戸時代のものと考えられるが、元はどこに、いつ建碑されたものか不明である。

古来、住吉といえば住吉神のしるしとしての「松」が多くの歌に詠まれ、姫松といえば、『伊勢

物語』の「我見ても 久しくなりぬ住吉の 岸の姫松 いくよへぬらん・・・」が知られている。

班女の塚・社の南東、松原通の玉津島神社付近には、藤原俊成によって勧請された住吉・玉津

島・人丸の和歌三神社と邸宅が存在したと考えられ、邸宅あるいは神社境内には、松が多く植

わっていたことは十分考えられる。

また、先に「新玉津島神社」の所で紹介したように、『都名所図会』に載せる境内を描いた絵図

には「住吉松」と明記して松が描かれているほか、『京都坊目誌』は、松原通の街名起源とし

て、応仁の乱の後は荒廃した、ただ玉津島神社の並木の松樹だけが繁茂していたので、当時より

の言い伝えにより松原と呼ぶようになったらしい。(私訳)

ことなど、一帯が松とかかわり深い地域であったことは間違いない。

直接関係するものか不明であるが、宝暦12年出版の『京町鑑』(『京都叢書』)には「玉津島町」

の説明に興味深い記事がある。

この町の南側に新玉津島社がある。社はすなわち俊成卿が勧請された所である。社内には歌学に

名高い北村季吟(俳諧道では貞徳の門人、芭蕉翁の師)が住んでいた。門内には泉州住吉屋上(おく

じょう)の松を移して植えられた。と記して(私訳)いる。

ただし「泉州住吉屋上(おくじょう)の松」は、語訳の間違いと思われる。

正しくは「泉州住吉尾上(おしょう)の松」と考えるが、「班女の塚」の横奥に残さ

れている「住吉姫松」の碑は、恐らく玉津島神社の「住吉松」、あるいは、もともと近辺にあった

とされる住吉神社跡の住吉松の横に建てられていたものが、いつの時代にか移設保存されたのかも

知れない。

何かの情報をお持ちの方がおられましたらご教示ください。
 

住吉神社探訪記 84 京都市下京区松原通の新玉津島神社(2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)21時02分21秒
編集済
  大正4年(1915)の『京都坊目誌』には、次の様に記して(私訳)いる。

○玉津島神社

玉津島町の南側309番地にある。鳥居は北面し、社殿は西を向く。祭神は、雅日女命・息長帯日女

命・衣通郎女である。文治2年(1106)11月、藤原俊成が勅旨を受けて勧請し社殿を造営した。その

地は俊成の宅地であった。貞和2年(1346)に再建され、邸内には和歌所も再置された。貞和6年

(1350)、足利尊氏が修理し、経賢法印を別当職に補任した。応永24年(1417)には足利義満が修造

した。また永享6年(1434)火災に罹り造営された。さらに応仁元年(1467)には兵火に罹って焼失し

再び造営された。天正年間(1573-1592)には後陽成天皇より新玉津島の宸翰を賜わる。天明8年

(1788)に類焼したため再造された。元治元年(1864)、兵火に罹り社殿を失ったが、朝廷から特別

に金百両を賜わり、再建の資金とした。明治6年(1873)7月に村社に列し、玉津島神社と称した。

境内の面積は75坪8合2勺で民有地一種。例祭は11月3日。・・・以下略・・・。

○和歌所の跡

玉津島町南側の地にある。中世以来、天皇の意向により和歌所が設置され、当職の者が玉津島神

社の別当に補せられることが通例となる。その後、和歌所は廃されて神社だけが残ったもの。

と記している。

参道沿いに祀られる摂社天満宮と末社の秋葉神社については、宝暦4年(1754)の『山城名跡巡行

志』
に、

天神社・稲荷社は本社の左右にある。(本社の)例祭11月13日、天神祭6月25日、稲荷祭2月初午。

と記して(私訳)いる。

『都名所図会』安永9年(1780) には、

新玉津嶋社は松原通玉津島町にあり。祭神は衣通姫で、紀州玉津島と同神である。俊成卿が勧請

したもの。祭は11月13日である。(爲家卿が若年の時、この社に毎月6度ずつ百首の歌を奉ったと

いう。)

と記して(私訳)いる。

なお、『同書』に掲載されている「新玉津嶋社」の絵図は、当時の神社の様子を詳しく描いてお

り、築地塀と門、広い境内奥の石壇上に三つの拝殿、その中央奥には立派な流造の本殿を描いて

いる。三つの拝殿の内、左側には「天満宮」、右側には「稲荷」、中央奥に祀られる御本殿には

「玉津嶋明神」と記している。つまり、古くは左右の拝殿内に、現在参道にある小祠が祀られて

いたようである。また、拝殿前には「住吉松」と記した大きな松が描かれ、江戸時代にはかなり

広い神域であったことがわかる。また、明暦4年(1658)の『京童』にも、神社境内の住吉の松と入

口の門前で参拝の許しを求めているのだろうか、武士と従者の様子が描かれている。

『山城名所寺社物語』享保年間(1716-1736) には次のように記している。

○玉津島 松原通からす丸西へ入ル南角

当社は、和歌の御神玉津島の明神である。五條三位俊成卿が都の内に和歌三神を勧請した。住吉

の社は醒井高辻に、人丸の社は本國寺の内に、玉津島は当社である。この地は俊成卿が住まれた

邸宅の跡で、薩摩守忠度(ただのり)が狐川から戻って一宿した所である。・・・・(略)・・・。

と記して(私訳)いる。

この中で、人丸社については、醒ヶ井通の新住吉神社近くで見つけられた人丸御霊社ではなく、

本國寺の人丸社の方を挙げていることが興味深い。

http://

 

住吉神社探訪記 83 京都市下京区松原通の新玉津島神社(1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)20時53分56秒
編集済
  さて、和歌三神の一神として藤原俊成卿により勧請されたと伝える玉津島神社は、平安京のほぼ

五條大路にあたる松原通に面した下京区玉津島町の一画、ホテルや商店の入った大小ビルに囲ま

れた所で、すぐ東側には烏丸通が通る。平安京の条坊では、左京六條三坊九町の北端にあたる。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.99881130010749,135.7590436746447,17

松原通に面した入口の冠木門前には「新玉津嶋神社」の社号を貼った銅版製の扁額を掲げた石鳥

居と石の社標があり、石敷参道の奥には拝所を兼ねた幣殿と流造りの本殿が直交して祀られる。

参道途中右手には、覆屋根で守られて摂社の天満宮、末社の秋葉神社が祀られている。

本殿左右には「奉燈」と刻んだ角柱形の石燈籠1対がある。幣殿の参道側軒下には、欠字があるも

のの、平成26年に復元調製された長文の由緒銘板が掲げられている。

神社入口に京都市が設置した説明板には次の様に記されている。

[京都市の説明板]

新玉津島神社 (にいたまつしま)

「この神社は、文治2年(1186)後鳥羽天皇の勅命により、藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の

歌人として名高い藤原俊成が、五條大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に、

和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請

したことに由来する。

それに先立つ寿永2年(1183)、後白河法皇の院宣により、藤原俊成はこの邸宅を和歌所として「千

載和歌集」を編纂し始めた。ちょうどその年、木曽義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちする

が、門下の一人である平 忠度(ただのり) は、危険を顧みずこの屋敷に引き返し、「一首なりと

も選んでほしい」と自分の秀歌の巻物を献じた逸話は有名で、俊成は、その中から次の一首を選

び、千載和歌集に載せたという。

 さざなみや 志賀の都は あれにしを

   むかしながらの 山ざくらかな

江戸時代には、「源氏物語湖月抄」などの古典注釈の第一人者で、松尾芭蕉の師である北村季吟

が、約七年間、この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書「万葉拾穂抄」の編纂に励んだ。

これらの由縁から、今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れている。」

と記されている。(続く)
 

住吉神社探訪記 82 京都市下京区柿本町本圀寺境内にあった人丸社(2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)11時34分14秒
編集済
  なお、人丸社すなわち柿本神社の所在地であるが、本圀寺の方丈・庭園が存在した五条通の南方

には、現在、京都東急ホテルが建っていて、全く旧状は失われている。

『重要文化財本圀寺経蔵(輪蔵)移築工事報告書』や『日蓮宗本圀寺史料』の付図・写真を見る

と、方丈書院の北側の庭園を画する東西築地塀に沿って、数十m程の細長い築山と池泉が存在し、

その東端に近い所の石橋を渡った築山上に石鳥居・柿本神社が存在したことがわかる。

 参照「六条の地に於ける終竟の本圀寺」

    http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_16_honkoku3.htm


ところで人麿社は、寺院造営以前の平安時代末期、藤原俊成による社の再興よりはるか以前の10世

紀初めの平安前期の歌人、紀貫之(866?~945)が勧請したものだと伝えていることは大変興味深

い。

平安時代~鎌倉初期には、付近には鳥羽皇后美福門院の乳母伯耆局宅、後に摂政・関白を務めた

近衛基通(1160-1233)の邸宅「猪熊殿」があったといわれ、

宝永2年(1705)の『山城名勝志』には、

○猪熊殿 六條北堀川西にあった。本國寺の方丈北端に御所の跡があり、今も古い堀跡が残る。

同所には柿本社がある。本國寺の寺記には、この地は源義経の旧跡云々・・・(略)・・。

と記され(私訳)るほか、

『山州名跡志』には、

源家堀河館 これ即ち源爲義(*1086-1156)より頼朝に伝わる所である。その地は現在本國寺の本

房より南の方である。方丈の東北の竹林の地は、いにしえは馬場だったという。・・(略)・・。

と記される(私訳)ように、河内源氏累代の居館も隣接して存在していた所でもある。


堀川は、平安京の造営に際し南北に開削された幅の広い人工運河であるが、洪水による被害や火

災により、周辺がたびたび荒廃したようである。

紀貫之が人丸社を勧請したとの伝承が正しいものとすれば、当時、左京六條堀川近くに構えられ

た公家や武家の邸宅・居館内への勧請であったものと考えられるが、関係する史料を見いだせな

いのが残念である。

なお、『山城名跡巡行志』によると、坊城通西高辻南の地、すなわち壬生寺の南方にもう一つ、

由来不明の人丸塚があったことを記している。
 

住吉神社探訪記 81 京都市下京区柿本町本圀寺境内にあった人丸社(1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)11時01分7秒
編集済
  ところで、柿本人麿を祀る人丸社あるいは柿本神社は、全国に250以上もの関係神祠があるといわ

れるが、下京区内にはもう一社、醒ヶ井通住吉神社の西南方、五条通りの南側堀川通りのすぐ西

に位置する柿本町に、町名の由来ともなった柿本神社(人丸社)が存在していた。

もと西本願寺の北方には、昭和46年に山科へと移転した日蓮宗の本圀(国)寺という大寺院と多く

の塔頭があり、安永9年(1780)の『都名所図会』「大光山本圀寺」の境内図には、伽藍北側に位置

する方丈の北方に「人丸社」が描かれている。文中には、人麿社 方丈の庭にあり。尊氏公ここ

に楼を建て観柳亭となづく。と記している。

また、宝暦4年(1754)の『山城名跡巡行志』には

○人丸社

方丈の北にあり南を向く。柿本人丸を祭る。紀貫之が勧請し、その後洪水のため社地が失われ

た。世人は人丸塚と呼び、その後、俊成卿により再興された。

と記して(私訳)いる。

少し古い正徳元年(1711)の『山州名跡志』には、さらに詳しい記述が載せられている。

○人麿社

方丈の北にあり南面する。祭神は柿本人麿。本圀寺の寺記によると、人麿社は、はじめ紀貫之が

勧請したものである。しかしその宮は、延喜年間に洪水によって失われ、社地だけが高く残り、

傍に柳の古木があった。よって後世に「人丸塚」と名付けられた。その後、藤原俊成卿が帝都に

和歌の三神を祭るに至り、神殿を再興した。さらにその後、この場所に本圀寺を移すにあたっ

て、足利尊氏公は、この神祠を再興して、前には堀河の流れを通し、幾品の草花を植え、傍には

亭閣を建てて観柳亭と名付けた。・・・(略)・・・・。

と記して(私訳)いる。

貞享3年(1686)の『雍州府志』にも「人丸塚」の由来に関する記載がある。

人丸塚

古くは日蓮宗本國寺の中にあった。寺の旧記によると、本國寺の第二世日静上人が相模国鎌倉松

葉ヶ谷から京都のこの寺に遷られる時、上人は本尊等と一緒に小さな船で北の方の一條堀河から

流れ下られたが、ちょうど人丸塚の前で船は留まり、そこに寺を建てたという。和歌三神社の内、

現在洛下にあるのは住吉社と玉津島社はあるが人丸社は無い。よって本國寺の中にある人丸社が

それにあたるだろう。今、八坂郷の法観寺の北にも人丸塚と呼ばれる塚があるが、はじめは本國

寺の地にあり、寺を建立する際に人丸塚を今の地に移し、塚の上に社を建てたものだろうか。

との内容を記して(私訳)いる。


人丸塚の存在も気になる所だが、幕末に醒ヶ井通住吉神社へ遷し祀られた「人麿御霊社」のほ

か、紀貫之が勧請し藤原俊成が再興したと伝える本圀寺方丈の北に存在した人丸社(柿本神社)を

合わせて、二つの東西「人丸社」が存在したことになる。

住吉社神社境内に移された人丸御霊社は、俊成が住吉社・玉津島社の勧請と合わせて、本國寺の

造営以前から荒廃していた人丸社を再興した際、その分霊を邸宅または付近に勧請したと考える

こともできよう。(続く)
 

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