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HPの手直し

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2017年 2月 8日(水)13時30分22秒
編集済
  リンク切れ・行の乱れなど、いろいろ不備な状態で放置してきた「いこまかんなびの杜」のHPですが、先日来少し手直し等を続けており、少しは改善できたかなと思っております。
引き続きページの手直し・新しいページの追加などやっていきたいと思っております。
どうかよろしくお願いします。
 
 

お礼

 投稿者:かとう  投稿日:2016年 7月27日(水)08時29分40秒
  さっそくのご回答、まことにありがとうございました。
調べてみます。
 

Re:「神武天皇聖蹟調査委員会」について

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 7月26日(火)22時08分3秒
編集済
  かとうさんへ

お尋ねの件ですが、『神武天皇聖蹟調査報告』(1942年文部省編)があります。
ネットの「国立国会図書館デジタルコレクション」から検索するとPDFファイルで閲覧さらにはダウンロードもできます。リンクを貼りますので一度調べてみてください。

『神武天皇聖蹟調査報告』
 

「神武天皇聖蹟調査委員会」について

 投稿者:かとう  投稿日:2016年 7月26日(火)13時49分56秒
  はじめまして。突然のお願いで恐縮です。
「神武天皇聖蹟調査委員会」について調べています。この委員会について書かれている文献をご存知でしたら、教えていただけませんか。よろしくお願いいたします。
かとう
 

Re: 神武天皇聖跡について

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 7月21日(木)14時41分37秒
  三猿舎 安田 様

遅くなりまして申し訳ありません。お問い合わせいただきました「神武天皇聖跡顕彰碑」4ケ所の

写真の提供の件ですが、いい写真ではありませんが、喜んで協力・提供させていただきます。

写真を探して2~3日の内にメールで送らせていただきます。

しばらくお待ちください。

 いこまかんなび 原田修
 

神武天皇聖跡について

 投稿者:三猿舎・安田  投稿日:2016年 7月20日(水)21時53分41秒
  突然のご無礼の段、お許しください。私は編集プロダクション『三猿舎』を主宰しております安田清人と申します。小社ではいま、高野山や熊野などを中心に、和歌山県の史跡を紹介するムックの編集を手がけております。たまたまこちらを拝見したのですが、お取り上げになっている「神武天皇聖跡」については、残念ながら手元に写真がございません。不躾な尾根がいとは存じますが、和歌山市・新宮市にございます顕彰碑(4箇所)のお写真をご提供いただくわけには参りませんでしょうか。ご迷惑をおかけすることのないよう、ご指示に従いまして善処させていただきたいと思います、ご検討の程、お願い申し上げます。

三猿舎・安田(03-5282-7061)
sanenshapub@ybb.ne.jp
 

住吉神社探訪記 96 京都市伏見 旧森村にあった住吉神社 (4)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月29日(水)21時30分33秒
編集済
  御香宮について『御大礼記念京都伏見町誌』 (1929)には、「本殿には正中に、神功皇后・仲哀天

皇・応神天皇を祀り、東間に宇部大明神(武内宿禰公)・瀧祭神(級長戸辺命)・河上大明神(豊玉姫

命)、西間に高良大明神(高良玉垂命)・若宮(仁徳天皇・菟道稚郎子尊)・白菊大明神を祀り、これ

を御香宮九柱神と称え奉る」と記し、境内末社として大神宮など16社をあげている。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.93426820519363,135.7668971826392,16

その中には末社として住吉神社が含まれ、現在の御香宮本殿東側境内には「住吉大明神」・「八

阪社」・「恵美須」・「若宮八幡」の古い扁額を掲げた四社宮が祀られている。

しかし、住吉大明神の社殿等について特別の扱いを受けている訳でもない。伏見城守護の役割を

もって移転と復社が行われていった間に、住吉の神は特別の神ではなくなっていった可能性があ

るように思う。

江戸時代の地誌等には、森村にあった住吉神社が大椋神社とも呼ばれ、さらに式内社の大椋神社

であった可能性を記していたにもかかわらず、『式内社調査報告』 (1979)

の「大椋神社」には詳しい考證がなく、「思うに久世郡巨椋神社と同じく干拓以前の巨椋池周邊

にあって『新撰姓氏録』左京神別に見える大椋置始連らの祀るところであったのだろう。」と記

すのみで残念である。


古来伏見一帯は、紀伊郡の南端に属し、西・南とも水域に囲まれて水運に恵まれた所である。

周辺は、神功皇后伝承に深く関わる地であり、郡名からは当然ながら古代大豪族の紀臣氏族、

渡来系の紀臣系部民の城部・木勝らの関わりが深い所であったことが考えられる。

旧森村にあった住吉神社、別名大椋神社は、恐らく式内社であったのだろうし、加えて周辺に存

在した式内社御諸神社の論社とされる御香宮の神域などと合わせて、巨椋池を望む地に大きな神

域が広がっていたと考えられる。


なお最後に『御大礼記念京都府伏見町誌』 (1929)に付図として載せられ、

文安2年(1442)に書写されたと但し書きのある「伏見山寺宮近廻地図大概」には、石井村の村落

を描いた右(南)に「大椋神社」と記して社叢・社殿・鳥居を描いているが、森村と記載がない。

また、左(北)に位置するはずの御香宮は、かなり上手の法安寺村の南に近い位置に社殿と鳥居が

描かれているのが注意される。

さらに「正親町天皇御宇天正年間豊公築城以前伏見九郷の稱あり、史上に於てはその名を見ざる

も、伏見の旧家往々この図を所蔵す」と紹介する同書付図の「伏見九郷之図」には、「石井村」

と楼閣のように描かれる「大宮殿三社御香宮社殿」の下には、「森村」と「大椋社 住吉」と記す

二層の社殿を描いている。

両書写図ともに「大椋神社」の存在を強く意識して描かれていることがわかる。

 

住吉神社探訪記 95 京都市伏見 旧森村にあった住吉神社 (3)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月29日(水)21時20分56秒
  森の住吉神社が遷された先と伝える御香宮であるが、この宮もほぼ同時期に伏見城下武家屋敷町

の造成に伴って移動させられたことが記録から判る。

『都名所図会』 [安永9年(1780)] には、

御香宮は、城山の西にある。本社には神功皇后を祭る。この地に御鎮座された年など詳しいこと

は不明。文禄年中に伏見の城山を築造された時、宮の社殿を大亀谷の東へと遷されたが、神の崇

りがあったとして再び旧地へと遷座された。(しばらく遷された地は古御香宮と呼ばれ、当社の御

旅所となっている)・・・(略)・・・。

と記して(私訳)いる。

この中で大亀谷とは、伏見城郭跡の北側背後、深草の藤森から東南方、木幡・宇治への道が通じ

る谷合い、現在の深草大亀谷古御香町の一画へ森の住吉神社を含めて御香宮社が遷宮祭祀され、

再び一緒に山下にあたる現在の地へと還宮されたものと考えるのが自然である。

また、『山州名跡志』 正徳元年(1711)には、

御香宮

伏見山の西3町ほどにある。門前の通りを合手條(おうてすじ)という。すなわち古の城の合手口へ

の順路である。門は南向、鳥居は南向きの木柱、拝殿・神殿も南面する。祭神は神功皇后。 鎮座

の由来は不詳。 伝えによると当初の祭神は九坐の神で、神輿も九坐あった。地元の産土神であ

る。例祭は9月9日。神輿1基。延喜式に載せられている御諸神社がこれにあたり、鎮座の由来も不

明。一書には貞観年間(*859-877)の勧請とある。・・・ (略)・・・・。

伝えによると、この地には初め金札宮があり、御香宮は南方の地、今の奉行館の西にある家中の

屋敷地にあったという。今なお古木があるのは昔からの御神木である。そのため、枝が風で折れ

たり枝を伐った際は、その木を当宮神職の家へ送る。

とも記して(私訳)いる。


当初の祭神が九坐の神であったことに関し、神社でいただいた由緒書 『御香宮』 には、六柱の神

を祭るとしか書かれていない。

(続く)
 

住吉神社探訪記 94 京都市伏見 旧森村にあった住吉神社 (2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月29日(水)21時15分9秒
  ここに登場する奉行屋敷とは伏見奉行所である。

伏見大手筋通にある京阪伏見桃山駅・近鉄桃山御陵前のすぐ東側には、神功皇后を主祭神として

祀る御香宮神社がある。その南側にある京都市営桃陵団地の敷地、東・西奉行町辺りが伏見奉行

所のあった所である。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.931101727331935,135.7658242990334,16

団地の西側入口には「伏見奉行所跡」の碑と「桃陵団地の歴史」の説明板が建てられている。

説明板によると、寛永元年(1624)、徳川家光の時に伏見城を壊し、富田信濃守の屋敷のあった場

所に伏見奉行所を建設したようである。南方伏見合同宿舎の角には今なお立派な石垣が残ってい

る。

もとこの地に伏見九郷の一村森村があり、森の住吉あるいは大椋神社とも呼ばれる住吉神社が存

在していたことになる。

つまり文禄年間における森村の人家移動に伴って、住吉神社(大椋神社)も新しい住吉町へと遷さ

れたと見られるが、それは分祠社と考えられ、その本社については御香社へと遷したものと考え

られる。

ところで大椋神社とも呼ばれた森の住吉神社について、『山城名跡巡行志』には、

大椋神社

その旧跡は奉行所内にある。祭神は住吉三神で、延喜式に載せられる(山城国)紀伊郡の大椋神社

がこれにあたる。この地は、昔の森村にあたっていたことから森の住吉と呼ばれていた。文禄3年

(1594)に社を御香宮に遷し、人家は西北方向、現在の住吉町へと移された。その跡にはなお小祠

が祀られている。

と記して(私訳)いる。

森村の人家移転に伴ない、大椋神社すなわち森の住吉社の遷座先は御香宮と明記し、旧地すなわ

ち奉行所内にもなお住吉の小祠が祀られていたことがわかる。

また、森の住吉社の別名大椋神社が、『延喜式』神名帳の山城国紀伊郡八坐の内に載せられる式

内社「大椋(おほくら)神社」である、と記していることもとても重要である。

(続く)
 

住吉神社探訪記 93 京都市伏見 旧森村にあった住吉神社 (1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月29日(水)21時03分45秒
  京都の街の中心部から東山に沿って南へ約3km、京都市の南端にある伏見区の伏見・桃山町内にも

2か所の住吉神社が存在したことが文献史料より知ることができる。

明治以前、深草~伏見町一帯は、山城国紀伊郡に属し、西方には桂川・宇治川・木津川の三川が

集まる所には淀の町があり、伏見の南方に広がる宇治川流域~盆地中心部の低湿地には、広大な

湖沼から変遷した「巨椋池(おぐらいけ)」と呼ばれる水域に面し、古くから水運や陸路の要衝地

として栄えてきた。

荘園や別業地が多かった時代から「伏見九郷」の時代を経て、やがて豊臣秀吉による伏見築城と

大規模な濠や水路・城下町の造成によって、伏見の町は大きな変貌と発展を遂げた。


さて、伏見に存在した住吉神社2社であるが、まず『都名所図会拾遺』 [天明7年(1787)]に、

住吉社

(伏見)川口船大工町にあって宝蔵院と称する。社前に大木の古松があり、その形は蟠龍(とぐろを

巻いた龍)
のようである。

森住吉社

住吉町にあって大椋神社と称する。古くは森村に鎮座していた。文禄年間(1592~1596)に森村の

民家をこの地に移した時、神社も移す。

と記して(私訳)いる。

この内、後者の森住吉社であるが、文禄年間に森村の人家と一緒に住吉社も移されたと解釈でき

るので、まずは住吉町の地を訪ねた。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.94311610361997,135.76167223947888,16

近鉄京都線伏見駅の南約300m、伏見城下武家屋敷地外に掘られた外濠の濠川(ほりかわ)西側に住

吉町がある。

付近を調べたが濠川と大正期に設けられた放水流路に挟まれて京都市立伏見住吉小

学校、一筋西の地に住吉児童公園・住吉会館などがあったが、住吉神社は見つけられなかった。

文禄年間まで森の住吉社が鎮座したという旧森村は、伏見九郷の一村で、『山城名跡巡行志』

[宝暦4年(1754) ]を見ると、伏見九郷として即成院村・保安寺村・石井村・森村・舟津村・

久米村・山村・北村・北尾村の9ヶ村をあげ、この中の森村について次のように記す。

森村は、今の奉行屋敷の辺りである。住吉の社があり森の住吉社と呼ばれたが御香宮へ遷され

た。人家は移されて今は住吉町と呼ばれる。

と記して(私訳)いる。

(続く)
 

住吉神社探訪記 92 補足 少將井旧跡の顕彰碑

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 6月 8日(水)20時49分0秒
編集済
  京都新聞社の東側、京都市中京区車屋町竹屋町下少将井御旅町352にある「山茶花美術館」の表左

側に平成21年に建てられた「少將井舊跡」の顕彰石碑がある。
 

住吉神社探訪記 92 京都市中京区菊屋町の南に存在した住吉別宮 (2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月18日(水)21時19分40秒
編集済
  高房の邸宅は、関連史料として載せる『古事談』・『百練抄』の記録には「高房朝臣大炊御門

亭」と記され、大治5年(1130)7月10日に火災で焼失した。その後、邸宅跡は、白河天皇の大炊御

門萬里小路殿ほかへと変遷していったようである。

ところで、『諸社根元記』に記されているという「大炊御門萬里小路住吉ノ別當但馬前司高房鎮

守」の「住吉ノ別當」については、『京都市の地名』も菊屋町の箇所で『京都坊目誌』に記す

『諸社根源記』の文をそのまま引用しているが、そもそも高房の鎮守とあるのに「住吉別当」と

いうのは理解しがたい。

何度か『諸社根元記』の内容を確認したが、「大炊御門萬里小路住吉ノ別當但馬前司高房鎮守」

の記述自体も見つけられなかった。

幸いなこと、宝永2年(1705)刊行の『山城名勝志』 (「京都叢書」)を見ると

○高房朝臣亭

古事談には、延久5年(1073)5月7日、太上皇の後三條は、高房朝臣大炊御門亭において崩御。大炊

御門の南、萬里小路の東。

○住吉ノ別宮

諸社根源記にいう 大炊御門萬里ノ小路住吉ノ別宮 但馬ノ前司高房鎮守

と記されて(私訳)いるのである。

「住吉ノ別當」ではなく「住吉ノ別宮」である。

これをさらに木版刷りの『山城名勝志』で確認すると、間違いなくやはり「住吉ノ別宮」で正し

かった。

11世紀の後半、左京二条四坊十一町の大炊御門萬里小路に邸宅を構えた源高房の鎮守「住吉別

宮」とは、摂津の住吉神社の別宮の意味であるのか、あるいは既に平安京内のどこかに勧請され

ていた住吉神社の別宮の意味だったのだろうか。今は神社の痕跡も見当たらない。

高房の時代には、この地から三町西方、東洞院大路の西側の三坊十四町に『枕草子』にも登場す

る冷泉の「少將井」があって、『百練抄』に「永久五年(*1117)正月十三日。祇園ノ別宮少將井

炎上」と記されるように、祇園社の別宮(御旅所)が存在した。

その地は、現在の四条通にある四条御旅所に移される前の古い時代の御旅所の一所で、祇園会に

は櫛稲田媛命(祇園少將井)の神輿を迎えて井桁の上に置き御霊会を行ったという。


同じように「別宮」の名を付す「祇園の別宮少將井」と高房朝臣邸に存在した「住吉別宮」が何

らかの関係を有したのかどうかは不明であるが、平安京内に営まれた公家たちの邸宅に付属して

祀られてきた神祠の変遷と興廃の歴史を考える上で重要な記録の一つといえるだろう。

     
 

住吉神社探訪記 91 京都市中京区菊屋町の南に存在した住吉別宮 (1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月18日(水)21時13分39秒
編集済
  京都御苑の南方、丸太町通から一筋南側にあたる竹屋町通(大炊御門大路)と南北通りの柳馬場通

(万里小路)が交わる南東側に京都市立御所南小学校がある。学校の東側の富小路通は、平安時代

にはやや東側を通り、おなじく富小路と呼ばれ、南側の夷川通は、冷泉小路と呼ばれていた。

学校敷地を含む一画は、左京二条四坊十一町にあたる。

この辺りは、『平成5年度京都市埋蔵文化財調査概要』1996によると「白河天皇の大炊御門殿、後

鳥羽・土御門・順徳三上皇の大炊御門京極殿、後嵯峨天皇が後深草天皇に譲位した冷泉万里小路

殿など、天皇の仮御所や貴族の邸宅などが立ち並ぶ邸宅街であった。当地は、文献史料から11世

紀後半には源高房、12世紀後半には藤原経房の邸宅があったことが知られる。」とされ、御所南

小学校の発掘調査では、平安時代後期~鎌倉時代の遺構として、大炊御門大路の路面と南側の

溝、井戸・溝・掘立柱列・土器溜・土壙などが見つかっている。学校の東南側、富小路通にある

富有自治会館前には、富有同窓會による「大炊御門万里小路殿」の顕彰石碑が建てられている。

石碑の所在地

http://www.mapion.co.jp/m2/35.01527303054495,135.76491771238648,18


さて、源 高房の邸宅について『京都坊目誌』には、

○源高房の亭跡 菊屋町の南側の地にあたる。高房は宇多源氏で有明親王の玄孫(やしゃご)にあ

たる源行任(ゆきとう)の子である。正四位下但馬守となり宮内卿に任じられた。大炊御門万里小

(おおいみかどまでのこうじ)に住んだ。延久4年(1072)12月8日、後三條帝は、帝位を皇太子の

白河に譲り、16日に二條第へ御幸され、翌5年(1073)4月には、高房亭へ移られ5月7日にそこで崩

御された。大治(1126~1130)の初めには一時鳥羽上皇の御在所となったこともある。

○住吉神社の跡 同所にある。廃亡の日などは不詳。『諸社根元記』に「大炊御門萬里小路住吉

ノ別當但馬前司高房鎮守」云々と記す。

と記され(私訳)ていて、源高房邸内に鎮守としての住吉神社が祀られていたことがわかる。

(続く)

http://

 

住吉神社探訪記 90 京都市右京区西院春日神社境内の住吉宮(4)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月14日(土)16時44分34秒
編集済
  一方 『都名所図会拾遺』の説明は少し異なっていて、次のように記す。

春日社

西院村の北のかた林の中にある。昔は神祇官にあり、そのため神祇官春日社と称した。地元の産

土神である。例祭は9月9日で、神輿は2基ある。

住吉社

同村西の方、南へ半町ほどの所にある。その付近、昔は伽藍があって当社はすなわち鎮守であっ

た。所在地の字名は「寺の内」という。6月28日に御祓が行われる。

野 宮

西院村から5町ほど離れた往還の西、林の中にある。ここは、嵯峨と同じく齋宮の居所となってい

た所で潔斎の地であった。今は西院春日明神の御旅所となっている。

寶蔵院

西院村の宗圓寺の南隣りにある。浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。則ち草堂と呼ばれる。この

寺の西に太田氏という農家がある。ここには昔から伝来する三尊仏があって、阿弥陀仏の坐像は

5尺ほど、脇士は観音・勢至菩薩である。

この地は、前に記した住吉社の南にあたり、ここの字名も「寺の内」といい、昔は寺院があっ

た。その本尊が残されて現在も民家に安置されているのである。

と記して(私訳)いる。宗圓寺の存在は不明である。


以上、今なお小さな祠として祀られている「住吉大明神」の本来の「西院住吉社」は

『都名所図会』
「梅宮」の背景に描かれ、『都名所図会拾遺』

には字名が「寺の内」にあったことを明記している所から、現在の寶蔵寺を含む西側背後の大き

な伽藍跡つまり「寺の内」の一画に、鎮守として「住吉社」が祀られてきたことは間違いない。

その古い伽藍が「松井寺」あるいは「邦恒堂」であったのかどうかは判らない。

また、太田氏に伝来したという阿弥陀三尊仏は、邦恒堂に祀られた定朝作の阿弥陀如来像であっ

たのだろうか、さらに現在も付近には太田姓の家が点在するなど、たいへん気になる所である。


ところで、元の「住吉社」は、木製の鳥居が四条通の方向つまり北を向き、社殿は西を向いてい

た。また、江戸時代から春日神社の2基の神輿の内の1基は住吉社の神輿で、両社の例祭(春日

社の例祭日は記録に異同あり、現在は10月)の時は、共に御旅所となってきた西方の「野宮」

(下の写真)へ巡幸していたことは、現在も変わらない。

ただし、江戸時代から春日神社に住吉社の神輿がなぜあったのかというのは、どのように理解す

ればいいのか。住吉社が境外摂社・末社であった可能性は低く、その創祀の年代は松院の時代に

遡るものと考えるのも面白い。

 

住吉神社探訪記 89 京都市右京区西院春日神社境内の住吉宮(3)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月14日(土)16時32分29秒
編集済
  松井町の北西端、綾小路通の手前に浄土宗の松樹山寶蔵寺という寺がある。

この寺の西側の古い町並みを残す路地の角で、偶然にも扉に「寺ノ内町々内会」と書かれた古い

赤い消火器の容器を見つけることができた。さらに北に曲がった路地の一画で、西に向けて祀ら

れる「住吉大明神」の祠を見つけることができた。

春日神社境内に祀られる住吉社は、もとこの地にあったのである。すぐ東側には何と住吉の名の

付くコーポもあった。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/35.0030802879474,135.7274070193184,19

付近は、四条通のすぐ南に位置し、右京五條三坊八町にあたる所で、平安中期には淳和院の別邸

の「松院」、平安後期には「邦恒堂」と呼ばれる阿弥陀堂、あるいは松井寺という寺が存在した

と考えられている地域にあたる。

寺ノ内町の住吉社の跡に祀られた小さな住吉大明神の祠は、覆屋の中に比較的新しい流造りの小

さな社殿が祀られており、左前には幕末期のものか笠石を載せて「住吉大明神」と刻んだ角柱状

の燈籠1基、正面には旧住吉宮のものとみられる盃状の凹みが付けられた台石が残る。

ところで、西院春日神社と住吉宮、さらに野宮の三社は、昔から深い関係があったようだ。

『山州名跡志』葛野郡には、

○春日社 西院村の北、平林の内にある。鳥居は西向で木柱。拝殿と社殿は南を向く。地元の産

土神である。例祭は8月28日。神輿は2基あって、その1基は住吉社の神輿である。

○住吉社 同村の西にある。鳥居は北向きで木柱。社殿は西を向く。

○野宮   齋宮ともいう 西院の西5町程の平林の中にある。拝殿と社は東を向く。ここは今、春

日社と住吉社の祭日には、神輿の御旅所となる。

と記され(私訳)、『山城名跡巡行志』もほぼ同様の記述である。  (続く)

                     
 

住吉神社探訪記 88 京都市右京区西院春日神社境内の住吉宮(2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月14日(土)16時24分23秒
編集済
  西院春日神社の境内に祀られている「住吉社」がもと祀られていたという「寺ノ内町」の場所に

ついては、町名が消滅しているためどの辺りにあったものか不明である。

『京都市の地名』によると、西院村は「明治6年(1873)12月、一村を車之路・出在家・立倉・今

在家・奥・中・寺之内・藪之内・新在家の9町に分けられた(『京都府地誌』)」とあり、「寺之

内町」の地名が登場するが、現在の何町にあるのかよく判らない。

『都名所図会』に載せられた「梅宮」の境内を描いた絵図の右手遠くに、左から「西院春日

社」・「西院住吉社」・「さいの野の宮」の3社が距離をおいて並ぶ様子が描かれていて、現在

の西院春日神社と野々宮神社を結ぶ中間あたりに元の「住吉社」があったことが判った。そこが

「寺ノ内」の手懸りである。

さて、西院春日神社西側の佐井西通(宇多小路)を南に進み、四条通を越えると西院松井町、西に

は西院坤(ひつじさる)町という町域がある。

『山城名勝志』は、永享日録に記される松井寺について、

○松井寺 西院村内の西南隅に寺町がある。ここは松井寺の旧跡か、松院の旧跡をこの寺とした

ものか。

と解釈して(私訳)いる。  (続く)

                     
 

住吉神社探訪記 87 京都市右京区西院春日神社境内の住吉宮(1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 5月14日(土)16時14分52秒
編集済
  四条通にある阪急西院駅から西北へ約300m、佐井通(別名春日通)を少し北に行った所に西院春

日神社がある。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/35.004884049632054,135.72964666384556,16

西院駅は、大学時代に駅前の「西大路四条」駅から市電に乗り「衣笠校前」まで行き来していた

懐かしい駅である。

ところで、平安時代、佐井通は道祖大路と呼ばれていた。道祖は「さい」と訓む。さいの神の

「さい」である。

佐井通に面した春日神社の鳥居をくぐり境内参道を西に進むと、広い神庭には10月の春日祭の

際に2基の神輿が還御の「拝殿回り」を行う拝殿があり、右奥には立派な朱塗りの横拝殿があ

る。その奥の瑞籬の内庭には、建御賀豆智命・伊波比主命・天児屋根命・比売神の春日四神を祭

る春日造の本殿4棟が並ぶ。

社頭の説明板によると、西院春日神社は、

「平安時代の初期、天長10年(833)2月28日、淳和天皇が仁明天皇に皇位を譲られ、淳和院(西院)

にお移りになられました。この時、勅命により奈良の春日大社よりご分霊をお迎えし、守護神と

されたのにはじまります。」

と書かれ、平安遷都後まもなく勧請されたことがわかる。

神社の東側一帯は、右京四条二坊十一町~十四町までの方二町の範囲に、淳和天皇(在位823-833)

の後院「淳和院」があったほか、西南付近には院の火災を避けて正子皇后が避難したとされる淳

和院の別邸「松院」が存在したともいわれている。

また付近には、平安後期に丹後や備後など7カ国の受領を歴任した藤原邦恒(986~1067)が、西院

の領所に営んだ阿弥陀堂「邦恒堂」などもあったといわれている。

さて、拝殿西側には舞殿や皇后正子内親王命ほかを祀る「還来(もどろき)神社」があるほか、奥

には淳和天皇を祀る「西院宮」と、住吉三神と大帯姫命(神功皇后)を祀る「住吉社」があり、さ

らに奥に弁天社・稲荷社を祀る神社が祀られる。

ところで、この内の「住吉社」であるが、向拝柱に付された説明札によると、「かつては正子内

親王が貞観年間(*859~876)に仮御座所とされた松院(現在の寺ノ内町)に祀られ、明治6年(1873)

に現在地に移された・・」と記され、現在の寺ノ内町に存在した淳和院の別邸「松院」に祀られ

ていた神社であったというのである。(続く)

 

住吉神社探訪記 86 京都市下京区松原通烏丸の俊成社と藤原俊成邸の跡

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月28日(木)10時59分16秒
  さて、『京都坊目誌』によれば、平安時代末期の文治2年(1106)11月、藤原俊成は後白河天皇に命

じられ、和歌三神の一神である紀伊国和歌の浦の玉津島神を、それから遅れて保元2年(1157)には

同じく住吉大神を俊成の五條宅内に勧請し社殿を造営したことになる。

『同書』には、

「藤原俊成の家址」京極町の西側より方一町の所である。伝えでは五條京極の家というのがこれ

にあたる。俊成を京極または五條と称するは、俊成の家があったからであろう。また別の邸宅が

五條にもあった。・・・・・。と記して(私訳)いる。

東西二か所の邸宅の内、五條にあった俊成の邸宅は、玉津島神社の地を含み烏丸通を東に入った

所にある「俊成町」周辺であったとされる。

『同書』の俊成町「町名起源」・「俊成の祠」の所を見ると、

伝わる所、この地は藤原俊成の宅跡であった。俊成の家は五條京極にあったが、別に五條の家も

存在し、その旧跡は玉津島町にあった。江戸時代の延宝年間(1673-1682)前後には、因幡堂前町・

紙屋町の町名もあった。宝暦年間には門出稲荷と称する神祠があったが、廃亡の年月は不詳であ

る。

○俊成の祠

俊成町438番地の富永某宅地内にあり、町民が私的に祭祀する。境内はわずか1坪で、ご祭神は皇

太后宮の大夫正三位藤原俊成という。社伝は不詳。明治36年11月30日に七百年祭が行われた。明

治44年には烏丸通の道路が拡げられた際、富永宅が狭小となることから、俊成の祠と俊成の木製

坐像を因幡堂の境内へ預けられた。とある(私訳)。

なお『山州名跡志』によると、社は西を向いて祀られていたようだ。

現在、俊成社は、松原通烏丸交差点の南東角にホテルの入ったビル下の狭い空間に移され、石燈

籠一対と小祠が通りに面して祀られている。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.99868606138349,135.75984297293098,18

天明7年(1787)の『都名所図会拾遺』には、当時の俊成社の様子を描いた絵図が掲載されている。

それによると、屋敷の裏庭の奥に建てられた二つの土蔵の間に、覆屋と垣に守られた流造の本殿

と入母屋風の拝所と鳥居があり、お参りに訪れた人なのか、2人の町人と案内する子どもを描いて

いる。絵図には「松原通烏丸東民家裏 俊成卿社」の説明が添えてある。
 

住吉神社探訪記 85 京都市下京区繁昌町の班女塚と住吉姫松の碑

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月27日(水)21時36分57秒
編集済
  玉津島神社のある松原通の一筋北、高辻通室町西入の繁昌町に、田心姫命・端津姫命・市杵島比

売命の宗像三神あるいは辨才天を祭るともいわれる繁昌神社(班女の社)がある。海神を祭る宮で

ある。

この神社の西側に建つマンション(カノン室町四条)の横、旧参道であった道を奥に入った所に、

1m以上の赤黒い大きな自然石を塚石に据えた「班女の塚」が祀られている。自然石はやや光沢の

あるチャートの様である。

塚の横に建てられた説明板によると「今は昔、平安京の頃、この辺りには藤原氏の邸宅がありま

した。その庭の中島に弁財天を勧請したのが「班女の宮」の始まりと伝えられます。・・・

(略)・・。鎌倉時代の逸話集「宇治拾遺物語」第三章の長門前司の娘の話の舞台は、この地に符

合することから、少なくともそれよりかなり古くから神が鎮座していたことを裏付ける証しとさ

れます。・・・・」と記されている。

物語の続きは、亡くなった娘のため築かれた高い塚が付近にあったこと、塚上に社が造られたと

いう。

ところで、班女の塚のすぐ右に接して、鉄柵に囲まれて小さな覆屋があり、中に黄灰色で柱状の

凝灰岩らしい碑が保存されている。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/35.00072940608922,135.7573941161007,17

碑面には大きな文字で「住吉姫松」と刻んでいる。聞くところによると、塚と並んでいるが繁昌

町域ではなく、そこは糸屋町だということで由来は聞いたことがないとのことであった。

もと班女の社について『都名所図会拾遺』には、

元はん女社

高辻通室町の西、北側人家の奥にある。昔この地に「はん女の塚」があり、今でも神祠が営ま

れ、鳥居の扁額には「半女社」と書かれている。その地には庭石が多数あって、はじめは画工狩

野氏の宅地であった。現在は、江戸狩野栄川の所有地であるようだ。

と記して(私訳)いて、赤黒い自然石は、庭石の1つと見られていたようである。

『京都坊目誌』には、

中世には、真言僧が守る功徳院という寺院となっていた。本尊は毘沙門天像を安置していたが、

天明・元治の火災に罹り、明治初年の神仏分離後に社殿が建てられた。

と記して(私訳)いるが、班女の塚・繁昌神社と「住吉姫松」の碑に関連する記録は見いだせな

い。

この碑は、江戸時代のものと考えられるが、元はどこに、いつ建碑されたものか不明である。

古来、住吉といえば住吉神のしるしとしての「松」が多くの歌に詠まれ、姫松といえば、『伊勢

物語』の「我見ても 久しくなりぬ住吉の 岸の姫松 いくよへぬらん・・・」が知られている。

班女の塚・社の南東、松原通の玉津島神社付近には、藤原俊成によって勧請された住吉・玉津

島・人丸の和歌三神社と邸宅が存在したと考えられ、邸宅あるいは神社境内には、松が多く植

わっていたことは十分考えられる。

また、先に「新玉津島神社」の所で紹介したように、『都名所図会』に載せる境内を描いた絵図

には「住吉松」と明記して松が描かれているほか、『京都坊目誌』は、松原通の街名起源とし

て、応仁の乱の後は荒廃した、ただ玉津島神社の並木の松樹だけが繁茂していたので、当時より

の言い伝えにより松原と呼ぶようになったらしい。(私訳)

ことなど、一帯が松とかかわり深い地域であったことは間違いない。

直接関係するものか不明であるが、宝暦12年出版の『京町鑑』(『京都叢書』)には「玉津島町」

の説明に興味深い記事がある。

この町の南側に新玉津島社がある。社はすなわち俊成卿が勧請された所である。社内には歌学に

名高い北村季吟(俳諧道では貞徳の門人、芭蕉翁の師)が住んでいた。門内には泉州住吉屋上(おく

じょう)の松を移して植えられた。と記して(私訳)いる。

ただし「泉州住吉屋上(おくじょう)の松」は、語訳の間違いと思われる。

正しくは「泉州住吉尾上(おしょう)の松」と考えるが、「班女の塚」の横奥に残さ

れている「住吉姫松」の碑は、恐らく玉津島神社の「住吉松」、あるいは、もともと近辺にあった

とされる住吉神社跡の住吉松の横に建てられていたものが、いつの時代にか移設保存されたのかも

知れない。

何かの情報をお持ちの方がおられましたらご教示ください。
 

住吉神社探訪記 84 京都市下京区松原通の新玉津島神社(2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)21時02分21秒
編集済
  大正4年(1915)の『京都坊目誌』には、次の様に記して(私訳)いる。

○玉津島神社

玉津島町の南側309番地にある。鳥居は北面し、社殿は西を向く。祭神は、雅日女命・息長帯日女

命・衣通郎女である。文治2年(1106)11月、藤原俊成が勅旨を受けて勧請し社殿を造営した。その

地は俊成の宅地であった。貞和2年(1346)に再建され、邸内には和歌所も再置された。貞和6年

(1350)、足利尊氏が修理し、経賢法印を別当職に補任した。応永24年(1417)には足利義満が修造

した。また永享6年(1434)火災に罹り造営された。さらに応仁元年(1467)には兵火に罹って焼失し

再び造営された。天正年間(1573-1592)には後陽成天皇より新玉津島の宸翰を賜わる。天明8年

(1788)に類焼したため再造された。元治元年(1864)、兵火に罹り社殿を失ったが、朝廷から特別

に金百両を賜わり、再建の資金とした。明治6年(1873)7月に村社に列し、玉津島神社と称した。

境内の面積は75坪8合2勺で民有地一種。例祭は11月3日。・・・以下略・・・。

○和歌所の跡

玉津島町南側の地にある。中世以来、天皇の意向により和歌所が設置され、当職の者が玉津島神

社の別当に補せられることが通例となる。その後、和歌所は廃されて神社だけが残ったもの。

と記している。

参道沿いに祀られる摂社天満宮と末社の秋葉神社については、宝暦4年(1754)の『山城名跡巡行

志』
に、

天神社・稲荷社は本社の左右にある。(本社の)例祭11月13日、天神祭6月25日、稲荷祭2月初午。

と記して(私訳)いる。

『都名所図会』安永9年(1780) には、

新玉津嶋社は松原通玉津島町にあり。祭神は衣通姫で、紀州玉津島と同神である。俊成卿が勧請

したもの。祭は11月13日である。(爲家卿が若年の時、この社に毎月6度ずつ百首の歌を奉ったと

いう。)

と記して(私訳)いる。

なお、『同書』に掲載されている「新玉津嶋社」の絵図は、当時の神社の様子を詳しく描いてお

り、築地塀と門、広い境内奥の石壇上に三つの拝殿、その中央奥には立派な流造の本殿を描いて

いる。三つの拝殿の内、左側には「天満宮」、右側には「稲荷」、中央奥に祀られる御本殿には

「玉津嶋明神」と記している。つまり、古くは左右の拝殿内に、現在参道にある小祠が祀られて

いたようである。また、拝殿前には「住吉松」と記した大きな松が描かれ、江戸時代にはかなり

広い神域であったことがわかる。また、明暦4年(1658)の『京童』にも、神社境内の住吉の松と入

口の門前で参拝の許しを求めているのだろうか、武士と従者の様子が描かれている。

『山城名所寺社物語』享保年間(1716-1736) には次のように記している。

○玉津島 松原通からす丸西へ入ル南角

当社は、和歌の御神玉津島の明神である。五條三位俊成卿が都の内に和歌三神を勧請した。住吉

の社は醒井高辻に、人丸の社は本國寺の内に、玉津島は当社である。この地は俊成卿が住まれた

邸宅の跡で、薩摩守忠度(ただのり)が狐川から戻って一宿した所である。・・・・(略)・・・。

と記して(私訳)いる。

この中で、人丸社については、醒ヶ井通の新住吉神社近くで見つけられた人丸御霊社ではなく、

本國寺の人丸社の方を挙げていることが興味深い。

http://

 

住吉神社探訪記 83 京都市下京区松原通の新玉津島神社(1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)20時53分56秒
編集済
  さて、和歌三神の一神として藤原俊成卿により勧請されたと伝える玉津島神社は、平安京のほぼ

五條大路にあたる松原通に面した下京区玉津島町の一画、ホテルや商店の入った大小ビルに囲ま

れた所で、すぐ東側には烏丸通が通る。平安京の条坊では、左京六條三坊九町の北端にあたる。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.99881130010749,135.7590436746447,17

松原通に面した入口の冠木門前には「新玉津嶋神社」の社号を貼った銅版製の扁額を掲げた石鳥

居と石の社標があり、石敷参道の奥には拝所を兼ねた幣殿と流造りの本殿が直交して祀られる。

参道途中右手には、覆屋根で守られて摂社の天満宮、末社の秋葉神社が祀られている。

本殿左右には「奉燈」と刻んだ角柱形の石燈籠1対がある。幣殿の参道側軒下には、欠字があるも

のの、平成26年に復元調製された長文の由緒銘板が掲げられている。

神社入口に京都市が設置した説明板には次の様に記されている。

[京都市の説明板]

新玉津島神社 (にいたまつしま)

「この神社は、文治2年(1186)後鳥羽天皇の勅命により、藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の

歌人として名高い藤原俊成が、五條大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に、

和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請

したことに由来する。

それに先立つ寿永2年(1183)、後白河法皇の院宣により、藤原俊成はこの邸宅を和歌所として「千

載和歌集」を編纂し始めた。ちょうどその年、木曽義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちする

が、門下の一人である平 忠度(ただのり) は、危険を顧みずこの屋敷に引き返し、「一首なりと

も選んでほしい」と自分の秀歌の巻物を献じた逸話は有名で、俊成は、その中から次の一首を選

び、千載和歌集に載せたという。

 さざなみや 志賀の都は あれにしを

   むかしながらの 山ざくらかな

江戸時代には、「源氏物語湖月抄」などの古典注釈の第一人者で、松尾芭蕉の師である北村季吟

が、約七年間、この神社の宮司として住み、万葉集の注釈書「万葉拾穂抄」の編纂に励んだ。

これらの由縁から、今も多くの人が短歌、俳句、文章の上達祈願に訪れている。」

と記されている。(続く)
 

住吉神社探訪記 82 京都市下京区柿本町本圀寺境内にあった人丸社(2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)11時34分14秒
編集済
  なお、人丸社すなわち柿本神社の所在地であるが、本圀寺の方丈・庭園が存在した五条通の南方

には、現在、京都東急ホテルが建っていて、全く旧状は失われている。

『重要文化財本圀寺経蔵(輪蔵)移築工事報告書』や『日蓮宗本圀寺史料』の付図・写真を見る

と、方丈書院の北側の庭園を画する東西築地塀に沿って、数十m程の細長い築山と池泉が存在し、

その東端に近い所の石橋を渡った築山上に石鳥居・柿本神社が存在したことがわかる。

 参照「六条の地に於ける終竟の本圀寺」

    http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_16_honkoku3.htm


ところで人麿社は、寺院造営以前の平安時代末期、藤原俊成による社の再興よりはるか以前の10世

紀初めの平安前期の歌人、紀貫之(866?~945)が勧請したものだと伝えていることは大変興味深

い。

平安時代~鎌倉初期には、付近には鳥羽皇后美福門院の乳母伯耆局宅、後に摂政・関白を務めた

近衛基通(1160-1233)の邸宅「猪熊殿」があったといわれ、

宝永2年(1705)の『山城名勝志』には、

○猪熊殿 六條北堀川西にあった。本國寺の方丈北端に御所の跡があり、今も古い堀跡が残る。

同所には柿本社がある。本國寺の寺記には、この地は源義経の旧跡云々・・・(略)・・。

と記され(私訳)るほか、

『山州名跡志』には、

源家堀河館 これ即ち源爲義(*1086-1156)より頼朝に伝わる所である。その地は現在本國寺の本

房より南の方である。方丈の東北の竹林の地は、いにしえは馬場だったという。・・(略)・・。

と記される(私訳)ように、河内源氏累代の居館も隣接して存在していた所でもある。


堀川は、平安京の造営に際し南北に開削された幅の広い人工運河であるが、洪水による被害や火

災により、周辺がたびたび荒廃したようである。

紀貫之が人丸社を勧請したとの伝承が正しいものとすれば、当時、左京六條堀川近くに構えられ

た公家や武家の邸宅・居館内への勧請であったものと考えられるが、関係する史料を見いだせな

いのが残念である。

なお、『山城名跡巡行志』によると、坊城通西高辻南の地、すなわち壬生寺の南方にもう一つ、

由来不明の人丸塚があったことを記している。
 

住吉神社探訪記 81 京都市下京区柿本町本圀寺境内にあった人丸社(1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)11時01分7秒
編集済
  ところで、柿本人麿を祀る人丸社あるいは柿本神社は、全国に250以上もの関係神祠があるといわ

れるが、下京区内にはもう一社、醒ヶ井通住吉神社の西南方、五条通りの南側堀川通りのすぐ西

に位置する柿本町に、町名の由来ともなった柿本神社(人丸社)が存在していた。

もと西本願寺の北方には、昭和46年に山科へと移転した日蓮宗の本圀(国)寺という大寺院と多く

の塔頭があり、安永9年(1780)の『都名所図会』「大光山本圀寺」の境内図には、伽藍北側に位置

する方丈の北方に「人丸社」が描かれている。文中には、人麿社 方丈の庭にあり。尊氏公ここ

に楼を建て観柳亭となづく。と記している。

また、宝暦4年(1754)の『山城名跡巡行志』には

○人丸社

方丈の北にあり南を向く。柿本人丸を祭る。紀貫之が勧請し、その後洪水のため社地が失われ

た。世人は人丸塚と呼び、その後、俊成卿により再興された。

と記して(私訳)いる。

少し古い正徳元年(1711)の『山州名跡志』には、さらに詳しい記述が載せられている。

○人麿社

方丈の北にあり南面する。祭神は柿本人麿。本圀寺の寺記によると、人麿社は、はじめ紀貫之が

勧請したものである。しかしその宮は、延喜年間に洪水によって失われ、社地だけが高く残り、

傍に柳の古木があった。よって後世に「人丸塚」と名付けられた。その後、藤原俊成卿が帝都に

和歌の三神を祭るに至り、神殿を再興した。さらにその後、この場所に本圀寺を移すにあたっ

て、足利尊氏公は、この神祠を再興して、前には堀河の流れを通し、幾品の草花を植え、傍には

亭閣を建てて観柳亭と名付けた。・・・(略)・・・・。

と記して(私訳)いる。

貞享3年(1686)の『雍州府志』にも「人丸塚」の由来に関する記載がある。

人丸塚

古くは日蓮宗本國寺の中にあった。寺の旧記によると、本國寺の第二世日静上人が相模国鎌倉松

葉ヶ谷から京都のこの寺に遷られる時、上人は本尊等と一緒に小さな船で北の方の一條堀河から

流れ下られたが、ちょうど人丸塚の前で船は留まり、そこに寺を建てたという。和歌三神社の内、

現在洛下にあるのは住吉社と玉津島社はあるが人丸社は無い。よって本國寺の中にある人丸社が

それにあたるだろう。今、八坂郷の法観寺の北にも人丸塚と呼ばれる塚があるが、はじめは本國

寺の地にあり、寺を建立する際に人丸塚を今の地に移し、塚の上に社を建てたものだろうか。

との内容を記して(私訳)いる。


人丸塚の存在も気になる所だが、幕末に醒ヶ井通住吉神社へ遷し祀られた「人麿御霊社」のほ

か、紀貫之が勧請し藤原俊成が再興したと伝える本圀寺方丈の北に存在した人丸社(柿本神社)を

合わせて、二つの東西「人丸社」が存在したことになる。

住吉社神社境内に移された人丸御霊社は、俊成が住吉社・玉津島社の勧請と合わせて、本國寺の

造営以前から荒廃していた人丸社を再興した際、その分霊を邸宅または付近に勧請したと考える

こともできよう。(続く)
 

住吉神社探訪記 80 京都市下京区醒ヶ井通の新住吉神社と人丸社

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月23日(土)10時48分58秒
  ところで、住吉神社の本殿右側に祀られている「人丸神社」であるが、この社について『京都坊

目誌』
は、次のように記して(私訳)いる。

○人麿ノ社

住吉町の東側、人家の後の園に祀られ「人麿御霊」と称されていた。勧請の年月は不詳である。

明和6年(1769)に町民が祠を再建したが、天明8年(1788)に類焼したため再造された。元治元年

(1864)に再び焼失したため、以後は住吉神社の境内に遷して末社とした。社は西に面している。

稲荷社もあるがこれを省略する。

とある。

すなわち、もとは住吉町の東側に祀られていたが、江戸末期の元治元年の火災以降は、現住吉神

社の境内に遷されたことがわかる。

ところで遷される以前の人麿御霊社の様子については、天明7年(1787)の『都名所図会拾遺』に、

次のように記されて(私訳)いる。

人麿御霊社 (ひとまろごりょうのやしろ)

醒井通高辻の南東側、人家の奥にある。初めはただ御霊社と呼ばれていた。昔、俊成卿の宅地に

和歌三神が勧請された。住吉・玉津嶋社は現存して前篇(『都名所図会』)にも載せられたが、人

丸の祠については載せられていない。しかし、近年の明和6年(1769)の春、正二位冷泉前大納言爲

村卿は、この人丸社が不明となっていることを惜まれて、付近の街々に祀られる祠を調べさせた

所、ついに人丸祠を見つけることができ、これこそ遠祖の俊成卿が勧請された一社であるとして

尊崇され、町中の人たちも初めてこれを知って社を修造し、祭事を改めて3月18日とした。為村卿

からも和歌をいただき、今は町内に蔵めている。

とある。

すなわち現住吉神社境内に祀られる「人丸社」は、江戸時代の明和6年(1769)に冷泉前大納言爲村

卿により不明であった人丸神祠が見つけられ、幾度かの火災・再建をへて、元治元年(1864)の火

災の後、住吉神社の境内に遷されてきたものだということになる。
 

住吉神社探訪記 79 京都市下京区醒ヶ井通の新住吉神社(3)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月22日(金)21時11分50秒
編集済
  明暦4年(1658)の刊行の『京童』の補遺である『京童跡追』には、

○新住吉 この宮は五條高辻にあり、むかし三位俊成卿が摂州住吉大明神を勧請した所である。

古くは神社の境内は、方一町ほどあったが、応仁の乱で焼失した。・・・。と記され(私訳)、

合わせて絵図を載せている。

築地塀内の境内には、瑞垣で囲まれ千木鰹木をのせた住吉造りの本殿と拝殿、その前には凧揚げ

などして戯れる5人の童たちを描いている。

ところで、俊成の五条の邸宅であるが、由来書にもあるように五条室町の地にあったとされる。

『京都坊目誌』によると、藤原俊成邸宅の場所について、

伝えでは「五條京極の家」と呼ばれる京極町の西側方一町の地のほか、五條にはまた別の邸宅が

あったという。

すなわち後述する玉津島神社がある玉津島町から烏丸通の東側、俊成町にかけて広い邸宅が存在

していたようである。現在の新住吉神社のある高辻通を東へ450mほど行くと、菅大臣神社があり、

さらに東に行った所には海神の宗像三女神を祀る「繁昌神社」がある。さらに一筋南の松原通を

少し東へ行った南には、住吉神社と同様、和歌の神とされる衣通郎女(そとおりいらつめ)ほかを

祀る「新玉津島神社」が鎮座している。

また、すぐ東側の烏丸通交差点南東側のビル下には、「俊成社」の小祠が祀られている。


これらの関連する神社については改めて紹介するが、新玉津島神社の鎮座地付近は、藤原俊成の

邸宅の跡であったようで、住吉神・玉津島神、後述する人麿神の和歌三神が、同時に勧請されて

祀られたものと考えられ、一帯は平安京条坊の左京六条三坊九町、烏丸通の東は十六町にあた

る。
 

住吉神社探訪記 78 京都市下京区醒ヶ井通の新住吉神社(2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月22日(金)21時03分16秒
  正徳元年(1711)の『山州名跡誌』神社部には、「新住吉社」として紹介されている。

○新住吉社 醒ヶ井通高辻の東南角にあり、門も社も西を向く。祭神は摂州住吉社と同じ神であ

る。当社は、和歌の神である故に三位藤原俊成卿の勧請した社である。

と記す(私訳)ほか、

 安永9年(1780)の『都名所図会』には

新住吉社は醒井通高辻角にあり、祭神は摂州住吉明神である。藤原俊成卿が勧請したものとい

う。

と記して(私訳)いる。

 さらに、大正4年(1915) の『京都坊目誌』には

○住吉神社

西高辻町醒が井の東北角の207番地1・2、及び住吉町481番地にある。古くから住吉町が祭祀して

いる。門は西と北にある。拝殿・本社共に西に面している。祭神は天照大神・田霧姫神・底筒男

ノ神・中筒男ノ神・表筒男ノ神・神功皇后・武内宿禰を祀る。後白河天皇は、保元2年(1157)藤原

俊成に命じて五條宅に勧請させた。すなわち和歌の神であるによる。応仁元年(1467)兵火に罹り

わずかに神宝が残る。永禄11年(1568)に現在の地へ遷座した。これは正親町天皇が命じたものと

言われる。中御門天皇の正徳6年(1716)に神輿と鉾等を下賜された。歴代天皇は、玉津島神社と同

じく歌道伝授の儀に際しては、使を遣わし参拝させた。天明8年(1788)正月の大火で社殿が焼失

し、新しく造営された。元治元年(1864)再び兵火により社殿を焼く。朝廷より金幣を下され、前

後に亘り下された献物は多い。明治6年村社に列し、同30年に町民その他有志は、社地を整備し社

殿を造営した。例祭は5月28日。現在の境内面積は67坪4合5勺を有し、官有地と民有地が混じる。

との詳しい説明がのせられて(私訳)いる。

 以上の記録や史書を参考にすると、現在の住吉神社は、応仁の乱による兵火で焼失した後の永

禄11年(1568)に現在の醒ヶ井通へ遷されてきたもので、神社は平安時代の末期の保元2年(1157)

に、後白河天皇が藤原俊成に命じて、和歌の神である摂津国住吉の住吉神を、俊成の五條宅へ勧

請させ、「新住吉宮」として祀ったことに始まるようである。(続く)
 

住吉神社探訪記 77 京都市下京区醒ヶ井通の新住吉神社(1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月22日(金)20時55分44秒
  さて、現在の五条通りから醒ヶ井通を北へ行き、三筋目の高辻通と交差する南東角に、和歌三神

に関わる古い伝承と由来を伝える住吉神社がある。

所在地  http://www.mapion.co.jp/m2/34.999909877190554,135.75277803438675,17

醒ヶ井通を挟む両側町の名は、やはり下京区住吉町である。一筋手前の東西通りは松原通で、今

では道幅は狭くなっているが、平安京時代の幹道五条大路にほぼ該当し、都の中央を東西に横断

する重要な大路であったようで、神社の所在地は、平安京の条坊制では左京五条二坊十二町附近

に所在していたことになる。しかし伝承や史書によると神社が中世末期に近辺から移転してきた

ものと伝える。

 板塀で囲まれた西側の冠木門から狭い境内に入ると、すぐに唐破風が付いた割拝殿があり、後

部に小さな住吉造りの本殿が祀られている。両殿の間には、神供台と屋根を付けた衝立状の木製

蕃塀が目隠し用に設けられているようで、上部には、額縁は赤く「住吉宮」の字は金色に塗られ

た小さな社額が掲げられている。下部の板前面には住吉の松と四羽の白い鶴が大和絵風に描かれ

ているようである。

 本殿の右奥には「人丸社」が祀られ、左奥には赤い鳥居・覆屋内に「熊丸稲荷大明神」の祠が

祀られている。

 拝殿の上には薄くなっているが、墨書で「住吉神社由来」を記した木製板が掲げられている。

内容を私訳すると

御祭神  天照大神 田霧姫神 底筒男神 中筒男神 表筒男神 神功皇后 武内宿禰命

 後白河天皇は、保元2年(1157)に和歌の三神を平安京に勧請するよう藤原俊成に命じられた。

俊成は命を受けて、摂津国住吉(大社)より五條室町の地に勧請し、「新住吉」として篤く祀っ

た。

以来、朝廷以下民間からも厚く崇敬され、宮中の和歌所別当が祭祀し、神社として興隆を極め

た。応仁の乱の兵火により社殿はすべて焼失してしまった。中世末期の永禄11年(1566)、正親

町(おおぎまち)天皇が荒廃を惜しまれ、現在の地に遷座、正殿が造営された。以来再び歴代朝

廷の崇敬はあつく、歌道御伝授の儀式に際しては、勅使が派遣され御代拝された。その後、二

度にわたり類焼、再造されたが、明治32年(1899)正三位伯爵冷泉為紀卿の呼びかけで広く寄附

を募り、同11月に現在の社殿が建立された。

との内容を記している。(続く)
 

住吉神社探訪記 76 京都市下京区藪之内町の中堂寺住吉神社(3)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月22日(金)16時13分11秒
  ここで注目したいことは、中堂寺住吉神社は、平安京遷都の頃に摂津の住吉大社より勧請された

ことを伝え、300年ほど後の平安後期にあたる保延4年(1138)に、歌道師範家の歌人として有名で

あった中納言藤原顕輔(あきすけ)の殿舎の内、すなわち「六条家」内に再興されて、歌道伝授の

際には歴朝の使いが遣されたのだと伝えている。六条家の名は、顕輔の邸宅が大宮六条にあった

ことによる呼称であるが、大宮通のすぐ西に位置する中堂寺住吉神社付近は、条坊制の左京六条

一坊十三町に該当し、周辺に六条家の邸宅が存在していたのだろう。

顕輔の邸宅内へ神社が再興されたのは、当然ながら歌道師範家の隆盛と和歌三神崇敬の高まりに

よるものだったのだろう。

 平安京遷都の当初に勧請されたとする伝承は興味深いものの、その経過及び当初の鎮座地につ

いては不明である。平安京遷都に伴う京域内の鎮護の神あるいは堀川などの人工溝や用水に関わ

る公式祭祀あるいは当初に居宅を構えた有力者により、六条周辺地に勧請されたものと考えても

よいのではないだろうか。

次に興味深いのは、神社が応仁の乱により焼失したため、しばらく油小路通六条の地に移されて

いたことである。その地は、現在の住吉神社の東南450m、堀川通のすぐ東側、西本願寺東北の隣

接地が油小路通六条であったという。北は条坊制の六条大路に接し西中筋通を挟んだ一画には、

現在でも住吉町の地名が残されている。

この住吉町について『京都坊目誌』 [大正4年(1915)]には

伝えによると、寺内となる以前に住吉の神祠があった。町名はそれによる。神社の興亡の年月は

不詳である。また、本国寺の中には人麿祠があって、五条の玉津島社とあわせて和歌の三神社と

される。今、中堂寺町にある住吉神社がこれにあたるものか。

と記して(私訳)いる。

しかし、和歌三神社の一社と伝える住吉神社は、住吉町から醒ヶ井通を北へ行った高辻下ルの地

に、藤原俊成の勧請と伝える住吉神社が鎮座していて、東南の玉津島町にある玉津島神社(新玉津

島社)等が近接している。

こうした神社については、続いて紹介していくが、五条通に沿った南北周辺、すなわち平安京の

条坊の左京六条一坊から三坊にかけた地に祀られてきた住吉神社や関連の神社は、伝承の平安時

代の和歌の隆盛に伴い、和歌三神を祀るための神祠として貴族の邸宅内に勧請された鎮守と考え

てよさそうである。
 

住吉神社探訪記 75 京都市下京区藪之内町の中堂寺住吉神社(2)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月22日(金)16時10分17秒
  住吉神社入口に京都市が建てた「説明板」を参照すると次のようである。

「当社は、平安時代初期の延暦年中(783~806)に建立され、保延4年(1138)に再興された。天正19

年(1591)に再々興された。現在の社殿は、文政8年(1825)に修復されたものである。祭神は、表筒

男命・中筒男命・底筒男命の三神である。」

 祭神が二神と三神の違いがあるが、相当古い歴史を秘めていることは確かである。

ところで、当住吉神社で配布されていた「神社由緒書」には、勧請以降の由来が詳しく書かれて

いて、それを参考に要点を記すと次のとおりである。

延暦年間(782-806)に摂津住吉宮から勧請された。その後、保延4年(1138)に中納言藤原顕輔(あき

すけ)の殿舎内に再興され、歴朝の歌道伝授の時には朝使が遣わされ参拝された。

藤原顕輔(1090-1155)は、平安時代後期の歌人で、顕季(あきすえ)の子、清輔(きよすけ)らの父に

あたり、崇徳院の院宣により「詞花集」を撰した。

神社はその後、応仁の乱の兵火で焼失したため、しばらく油小路通六条に移されていたが、本願

寺の移築のために再び旧地(中堂寺)に戻った。一時移転したその地には住吉町という名前が今も

残る。

現在の本殿は、天明の大火以後に建てられ、京都市内に残る江戸時代唯一の住吉造りの建物と思

われる。境内には歌道の神として紀貫之大神、天照皇大神、猿田彦大神、天満宮、稲荷社、金比

羅社を祭る。   (中略)

また、住吉神社には江戸時代の作で氏子祭の神輿の先導、露払いの祭具である剣鉾三基(松鉾・牡

丹鉾・菊鉾)が、担い鉾に改造されているが今も伝わる。住吉神輿は、正徳6年(1716)の作で、天

明8年(1788)の大火によって本殿、神輿ともに焼失したため、寛政3年(1791)5月に「宮殿式切妻造

り」の神輿に造り改められた。

との内容が記されている。

(続く)
 

住吉神社探訪記 74 京都市下京区藪之内町の中堂寺住吉神社(1)

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年 4月22日(金)16時07分29秒
編集済
  次に、島原の住吉神社の北方に位置する旧中堂寺村の住吉神社の歴史を考える。神社は、中堂寺

通に面した下京区大宮通五条下ル西入ル藪之内町に鎮座する。

所在地 http://www.mapion.co.jp/m2/34.995210061018156,135.74877886074608,17

通りの南側の石鳥居(昭和5年)から狭い境内に入ると、正面に社務所、左手には金比羅神社、右手

の赤い鳥居の奥には拝殿と住吉造り風の江戸期本殿が祀られている。

拝殿左側の覆屋内には、新しい天満宮社・貫之神社・道祖神社・神明神社の四小祠と、右端には

杮葺流造の古風な稲荷神祠が祀られている。奥の本殿左手の植込みには数個の自然石と人面を表

したような不思議な加工石が存在する。

宝暦4年(1754)の『山城名跡巡行志』には

住吉ノ社(中堂寺)

中堂寺村にあり、門は北向き、鳥居と社殿は東向き、鎮座の記録は不詳。例祭は6月28日。神輿

は一基 。近頃、島原町の産沙神ともなり、お旅所の社が彼の地に建てられた。よって23日に神

輿は島原へ移る。島原は古くは松原の氏子であった。

と記され(私訳)ていて、江戸時代以降、お旅所となった島原の住吉神社とは深い関係となったこ

とがわかる。

また、安永9年(1780)の『都名所図会』にも

住吉社 大宮中道(堂)寺にあり、ご祭神は摂州住吉大社からの勧請である。中堂寺島原傾城町地

域の産土神。祭は6月28日。

と説明して(私訳)いる。

さらに『京都坊目誌』には次のように記されている。

○住吉神社

藪之内町の中央南西街の南側617番地の1にある。門は北に面し、華表(鳥居)は東面、本社も東面

している。祭神は表筒男命・底筒男命である。創祀の年月は不詳。一般に中堂寺の住吉と呼ばれて

いる。社記は、天明8年(1788)正月に焼失して伝わっていない。明治6年(1873)7月に村社に列す

る。現在の境内面積は109坪を測る。例祭は9月28日で、境内には天満宮・紀貫之の社ほか五つの

末社があるが省略する。

(私訳)とある。

(続く)
 

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